ということで、福島区でいちばん大きな下福島公園(約3.8ヘクタール)は藤があふれた公園になっています。がしかし、このブログの悪い癖で、花の時期など考えずにたまたま訪れた時のことを記事にするので、藤の花の写真は一枚もありません。
とは言え、花こそ咲いていないものの、園内には至るところに各種の藤棚が仕立てられています。 スチール柱に木製の横木を載せてネットをかけたもの。
擬石張りのコンクリート柱とスチール製の横木にネットをかけたもの。
擬木のパーゴラの上に、鉄パイプ製を格子にしたパーツを追加したもの。
スチール製の枠に竹竿を追加してネットをかけたもの。上下2段に分かれています。
えらく背の低いもの。
等々、さながら藤棚の見本市のようです。
ただ単に、その時々に使いやすい材料で作っているだけのようにも思いますが、一方でそれぞれに藤の育て方、仕立て方、見せ方などが異なるのかも知れませんので、来年の花の季節には、ぜひ確かめに行ってみたいと思います。
藤のいわれについては、大きな記念碑(解説碑)があります。
■野田ふじと藤邸の庭
野田ふじは600年余り前から「吉野の桜か 野田の藤」とその美がたたえられ、将軍足利義詮や太閤秀吉などが野田の旧家、藤邸へ来遊しました。
この著名な野田ふじも近年樹勢が衰え枯死寸前の状態になっていましたが、藤家ならびに大阪福島ライオンズクラブのご厚意により、ここ下福島公園に藤邸の庭を移し、同庭に残存の原木から接木した数本のふじを移植して昔日の面影を再現することになりました。
なお当地から南西400メートルの春日祠前には「野田の藤跡」の碑があります。
昭和48年2月 大阪市
大阪福島ライオンズクラブ 1976.10
このように、藤が目立つ下福島公園ですが、開園当初はそれほどでもなかったようです。
下の図は、1939年(昭和14年)発行の日本公園緑地協会の機関誌『公園緑地』(第3巻第20号)に掲載されている計画図ですが、中央に広場を設け、周囲はテニスコート、相撲場、児童遊技場、徒渉池(水遊び場)などで構成されています。
計画図なので、3年後(1942年)に開園した時にこの通りの姿だったのかは不明ですが、注釈の中にも藤のことはまったく触れられていません。
当時は空襲に備える避難場所・延焼防止帯としての「防空空地」が計画・整備されていた時代ですので、その時に藤がどうしたといった話は盛り込みにくかったのでしょう。
ちなみに、今は公園区域が上の計画図よりも少し広がって、施設の配置・内容も変わっています。
今は中心部に多目的グラウンド(草野球場)があり、その東側に遊具広場、南の拡張部分に屋内プールが設置されています。
もっとも周囲は密集した市街地でまとまったオープンスペースの少ない地域だというところは当時と変わらず、いつも多くの人で賑わっている下福島公園でした。
●福島区役所のサイト「のだふじコーナー」
●大阪府立図書館 おおさかeコレクション 芳瀧画「浪花百景 野田藤」
(2015年3月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿