いつ頃の埋立なのかはハッキリ知らないのですが、1920年(大正9年)の地図を見るとすでに陸と島とは繋がっていて、前島町という町名も見てとれます。
1947年(昭和22年)の米軍空撮を見ると、公園付近(写真中央の道路に囲まれた三角形)は米軍に使われており、仮設的な資材ヤードか何か、やや雑な利用が見受けられます。しかし前島町から沖(写真では左上方向)の現・泊港や若狭付近はまだ湿地帯のままです。
ちなみに写真の下寄り、左下から右上に斜めに延びている畑と森の中を通っている一本道が、現在の国際通りです。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・
整理番号・USAokinawa/コース番号・M100B/写真番号・109/撮影年月日・1947/05/12(昭22)
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さて現在の公園ですが、区画整理で生まれたと思しき三角地に、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒、シーソーなどのオーソドックスな遊具が置かれた遊具広場型の小公園です。
ここ数年、那覇市では古くなった遊具の更新を進めており、ブランコなどはかなりの公園で新しいものに替わっているのですが、ここにはまだその波は押し寄せていないようです。
滑り台が撤去された痕跡らしきものはありましたが、後継のものは設置されていません。
ただ、学校統廃合で隣接の小学校が幼稚園併設型にリニューアルされていますので、子供たちの利用も考えて、近々この公園もリニューアルの動きが出るのではないかと思っています。
最初に述べたように、現在の町名である前島の中で、もともとの島だったのはこの公園と小学校のある付近だったようで、それ以外は塩田が広がっていたそうです(「泊」は前島も含めた現・泊港周辺一体の広い範囲を指す地名だと理解して良いと思います)。
■泊塩田之跡碑
三百有余年の沖縄製塩史 日本復帰と共に終る 祖先の偉業を偲び この碑を建立す
昭和47年5月15日
ただ、上で引用した空撮を見る限り、この碑が建てられた40年ほど前まで公園付近で製塩がおこなわれていたわけではなく、日本復帰に伴って、当時の日本専売公社による塩の専売制が適用されて旧来からの沖縄の製塩業が廃業を余儀なくされたことの記念碑を、たまたま場所のあった公園に設置したのだろうと思います。
また焚字炉は、中国から伝わった風習を踏まえたもので、文字を敬い、文字の書かれた紙を一まとめにして燃やすための施設です。
ここの焚字炉は戦前にあったものの再現だということですが、パッと見たところ「白いポスト」を思い起こさせるシンプルでさほど大きくないものです。
現地の碑文を踏まえれば、もともと作られたのが19世紀のことでしょうから、まだ紙の消費がそれほど多くはなく、このサイズでも間に合っていたのでしょう。
■焚字炉
1838年(天保9年)尚育王の時代に冊封使林鴻年の勧めにより梵字炉が設けられた。
沖縄の旧俗では文字を書いた紙片を大切にする様に適当な場所に梵字炉を設けて路傍の紙片はこれに入れて積もった時に焼いていた。
第二次大戦前迄前島小公園には東西に通ずる大通りに面して一基置かれていた。
この地域は製塩人口が多かったが先人達が儒学にも深い関心をもっていた精神を汲み次代を担う青少年に誇りと励みを与える趣旨で再建するものである。
平成四年四月吉日
建立者 財団法人泊先覚顕彰会
とまり会
と言うことで、小さく目立たないのですが、地域の歴史を語り継ぐという重要な役目を果たしている前島中公園でした。
(2015年1月訪問)
【2019年4月追記】
4年ぶりに前を通りかかると、この公園が全面的に大改修をされていたので、改めて別記事として取り上げました。
●No.2090 前島中公園・改
https://nippon1000parks.blogspot.com/2019/04/20901000.html
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