624/1000 宮仲公園(東京都豊島区)

2014/03/24

身近な公園 石碑めぐり 東京都 豊島区

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宮仲公園はJR大塚駅から北東方向へ向かう都道沿いにある小さな公園です。

明治の終わり頃、1901年(明治34年)から1911年(明治44年)の間、現在の公園のすぐ近くに東本願寺の学寮の流れを汲む真宗大学(現在の大谷大学の前身)があったということで、その記念碑が公園内にあります。

もともと京都のお寺の学寮として江戸時代初期に始まり、現在も京都にある大谷大学。その前身がなぜ明治の東京にあって、そして10年ほどで京都に戻っていったのか。詳しいことはわかりません。
ただ、大谷大学のサイトで沿革を見ると、東京に大学があった期間も京都には高倉大学寮が置かれており、この2つが1911年に合併、大谷大学と改称されて京都に置かれていますので、企業に例えると京都発祥の会社が京都本店・東京本社の二頭体制で事業拡大を狙ったものの、東京が意外に伸びずに撤退したような格好だったのでしょうか。

■大谷大学開学の碑

大谷大学 東京巣鴨開学の地

明治34年10月13日、大谷大学の前身である真宗大学が清沢満之を初代学長として、当時 巣鴨村 宮仲 と言われていたこの地に開校された。大学はその後 京都に移るが、大谷大学の近代の黎明はまさにこの地に告げられたのである。

平成12年10月13日

大谷大学

その後、この土地は渋沢栄一の三男にして、自身も製鉄事業などで活躍した実業家・渋沢正雄の手に渡り、屋敷として使われた後に当時の東京市に寄付されました。
もっとも、このブログではお馴染み・日文研の所蔵地図データベースから1956年(昭和31年)発行の『東京都区分詳細図 豊島区』(日地版本株式会社)によれば、この時点でも現・宮仲公園から200mほど西に入ったところに「渋沢邸」と書かれた区画が現存しているので(これが上記の真宗大学の用地とも一部重複しています)、自宅すべてを寄付したわけでもなく、幹線道路に面した一部を分割して寄付したということだったのではないかと思います。
また大正・昭和初期にバリバリやっていた実業家の本邸が西巣鴨というのもおかしいように思うので、別宅、隠宅の類だったのでないかと考えます。

■宮仲公園の由来
昭和13年11月東京市豊島区西巣鴨2丁目1570番地居住の澁澤正雄氏はこの地200余坪を東京市に寄付せらる。
依て市は此の地に児童遊園地として宮仲公園を開設す。
茲に由来を記し後世に伝ふ

昭和16年12月

東京市

さらに戦時中には、皇后が近くまで防空訓練を視察に来て、歌を詠んだそうです。

■「皇后宮御歌」の碑
なぐさめむ ことのはもがな たたかひの には(わ)をしのびて すぐす やからを
(訳)なぐさめる 言葉もありません 戦場を偲んで 過ごしている人々を
昭和18年5月19日に豊島区西巣鴨2丁目2601番地、豊島授産場付近で隣組の防空訓練が行なわれ、皇后が視察して歌を詠んだ。
これを記念して当時の町会長が宮仲公園に皇后の歌碑を建てたという。

とまぁ、小さい割に記念碑が多い宮仲公園なのですが、落ち着いてよく考えると、この公園で記念しないといけないのは渋沢正雄さんだけのような気もします(あとの二つは別の場所で起きたこと)。
まぁでも、民間に売り渡されたであろう大学跡地や人目につきにくい授産場跡に記念碑を建てるわけにもいかないので、公園がその役割を引き受けているということなのですが。

さて、石碑を除けば、トイレやベンチのほかに目立った施設はない街道沿いの小さな三角公園です。
とくにトイレは使い勝手がよいのか、ドライバーの方々がひっきりなしに訪れていました。
今まで色々あったけど、ひっそりと落ち着くところに落ち着いているという感じの公園です。

豊島区による公園紹介ページ

(2014年2月訪問)

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