『角川日本地名大辞典28 兵庫県』によれば、須佐野は「江戸時代には兵庫津の町々の周辺に広がる湿地帯の一部であった。町名は(中略)須佐ノ入江による。須佐の入江は洲砂の入江とも書かれ、須佐は『荒れすさぶ』の意とも、須佐之男命の名にちなむともいう」とされていますので、もともとは湾口砂州が伸びて入江を塞ぎそうになっていた(そしておそらく後に塞いでしまって、やがて湿地になった)入り江のことを呼んだものだと想像します。
神戸市立博物館発行の『よみがえる兵庫津』に掲載されている古地図を見ると、1696年「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」では上述のような形状の入江があり、1751年「摂津国矢田部郡福原庄兵庫津絵図」では、すでに入江ではなく川(水路)のように描かれています。
その後の兵庫港では埋立や運河整備などが進んだため、江戸時代以前の風景を思い浮かべるのは難しいところですが、今は今で、あまり使い道のなくなった運河が何となく「中世にも、この辺に船が集まっていたのかなぁ」という雰囲気だけは伝えてくれます。
さて本題の須佐野公園。
平安時代より続く真光寺という時宗寺院の横手にあり、なんとなく落ち着いた雰囲気があります。
この辺りは古代から栄えた兵庫津、大輪田泊のあったところなので、神戸市によって「兵庫津の道」と名づけられた散策路が整備されています。須佐野公園もこのルートに面していますので、出入口付近は歴史的な道に似合ったトーンで整備されたものと思われます。
その出入口の脇に「和田の笠松」の歌碑があります。
●現地の案内板より「和田の笠松」
和田の笠松は往事須佐の入江の浜に聳え、入港船の目標となり、東西往還の目印の松ともなっていた。鎌倉時代初期の歌人、藤原為家の歌に「秋風の吹き来る峯の村雨に、さして宿かる和田の笠松」と歌われており、古くから 有名な松だった。延寶8年(1680)の「福原びんかがみ」には、絵入りで紹介、元禄4年(1691)の絵図にも真光寺のそばに松の絵が入っている。元文元年(1736)の海道名所図では立派な松が描かれており、寛政10年(1798)の摂津名所絵図には絵入りで「古松は枯れて植継ぎなり」とある。
明治20年頃まではこの松の下に稲荷があったが、のち住吉神社の境内に移った。笠松も次々と植え継がれていたが、おしくも戦災により焼失無くなってしまった。
左側の「和田の笠松・笠松の歌碑」は神戸史談会が発会70周年記念事業の一つとして、昭和50年11月9日、小河公園内に建立したものである。今回「兵庫津の道」に面したこの地に移設した。
平成15年11月
神戸市、兵庫津の文化を育てる会
入り口の石畳の向こうには、築山というか枯山水というか、修景施設だとは思うのですが、子供にとってはちょうど良い遊具になりそうな山がありました。
いちおう登ってみると、隣の真光寺の境内がよく見えました。
築山を通り過ぎると土の広場になります。こちら側は、普通の街区公園、遊具広場の仕立てです。
遊具の目玉は、こちらの複合遊具になるでしょうか。
下にマットを引いて今風の安全対策をしていますが、遊具そのものは、そこそこ古いもののようです。
新しいものと古いものが程良く組み合わされ、近所の人にも歴史散策の人にも役立つ、良い公園だと思いました。
(2013年5月訪問)
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