那覇の歓楽街である辻地区の外れに「三文殊」という一風変わった地名にちなむ小公園があります。地名は「サンモウジ」と読みますが、公園名は「サンモンジュ」と読むようです。
三文殊とは、諺に言う「三人集まって文殊の知恵になる」のとは関係なく、「一人ひとりが文殊くらい賢い人が三人集まった」という伝承によるものだという説があります。
公園内にある解説板には、次のように書かれています。
■現地の解説板より「サンモウジ(三文殊)の話」
『南島記事外篇』(西村捨三著/1886年)によると、18世紀を代表する学者・教育者「程順則(名護親方寵文):ていじゅんそく(なごウェーカタちょうぶん)」、大政治家「蔡温(具志頭親方文若):ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく)」、そして「スグリ山田:勝れやまだ」と呼ばれた「山田親雲上:やまだペークミー(唐名:阮瓉)」の三人の賢人が、琉球の国のことを語り合った場所なので「三文殊」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「サンモウジ」という地名になった、という言い伝えが記されています。
しかし、「三孟子」、「沙帽瀬」、「烏帽子■(文字欠け)」などとも記されている史料もあり、別のお話が伝わっていたかもしれませんが、今となってはわからなくなっています。那覇市教育委員会文化課
この解説文には、琉球王国時代の方々の名前が出てきます。
解説文だけでは少しわかりにくいですが、近世琉球の士族階級は中国風の名(唐名)と日本風の名(大和名)を持っており、大和名では領地の地名が苗字っぽく使われ、さらに役職に応じた称号を持っていました。全部続けて書くとかえってわかりにくいようにも思うのですが、現在の資料は全部書くことが多いようです。
三賢人の中でいちばん有名な蔡温の場合ですと、蔡温(唐名。姓が蔡、諱が温)、具志頭(家名;領地の地名≒苗字)、親方(称号)、文若(名乗)という分解になります。
また、この伝承を記録して書物に残した西村捨三は、彦根藩の作事奉行の家に生まれた明治期の官僚、政治家、実業家で、1883~1886年(明治16~19年)の間、第4代の沖縄県令を務めた人物です。後に大阪府知事、大阪築港工事事務所長として淀川改修や大阪築港に力を尽くし、その遺徳を称えてNo.377の天保山公園に銅像が建てられています。
さて、地名の話はほどほどにして、現在の公園。
伝承に彩られた岩山を残すために公園化したような節があり、ブランコの置かれた小さな広場と、この岩山だけでほぼすべてです。
この公園から海側は18世紀以降に埋め立てられた場所なので、おそらく、この岩山もかつては浅瀬に浮かぶ小島のような形で存在したのではないかと思われます。
今は公園そのものが、歓楽街に浮かぶ離れ島のようでもあります。
ブランコ周辺は、ちょうどリニューアル工事中でした。ブランコそのものを新しいものに交換し、周囲の芝生も貼り替えているようです。
大きなガジュマルの樹の下で休憩する作業員の方たちというのも、沖縄でよく見かける風景です。
ちなみ公園のすぐ隣には、以前は「左馬」という立派な料亭があったのですが、潰れて売り地になっていました。
琉舞なんかも見られる本格的な料亭だったと聞いており、私も10年ほど前にいちど行けそうな機会があったのですが同行者のタイミングが合わずに流れてしまい、気がついたらお店が潰れていました。残念。
(2013年2月訪問)
【2023年7月追記】
10年ほどの間に、隣に大きなホテルが建ったり、料亭跡地が高齢者福祉施設に変わったりした三文殊公園ですが、園内の様子はさほど変わりません。
10年前に工事中だったブランコはきれいになって、今も現役です。
いつの間にか解説板も更新されて、戦前の写真入りのものになりました。
また裏面にある解説板の内容も少し変わって、以前は添え物のようだった「紗帽岩」説が強調されるようになりました。
また『南方記事外篇』からの引用に関する部分では、三賢人の並び順が、以前は1)程順則、2)蔡温、3)阮瓉の順だったものが、1)程順則、2)阮瓉、3)蔡温となり、蔡温と阮瓉の順位が入れ替わっています。
さらに人物名の読みがなについて、ひらがなとカタカナの使い分けが少し変わったことも気になります。
古い解説板が設置された時期から、歴史書や史料の読み方、沖縄方言の表記の仕方などが変わってきている状況が反映されているのではないかと想像します。
■新しい解説板より「サンモウジ(三文殊)について」
サンモウジは旧辻村の海端にあった小高い丘陵です。一体は辻原(ツージバル)と呼ばれる岩礁台地が広がり、先端には潮の崎(スーヌサキ)という岬がありました。その辻原には、那覇の人々の墓が数多くありました。
地名の由来については、「名護聖人」と称えられた程順則(名護親方寵文):ていじゅんそく(ナゴウェーカタちょうぶん)1663‐1744年)、「スグリ山田」(秀でた山田)と呼ばれた阮瓉(山田親雲上龍文):げんさん(ヤマダペーチンりゅうぶん)1678‐1744年)、三司官になった蔡温(具志頭親方文若):さいおん(グシチャンウェーカタぶんじゃく)1682‐1761年)の三賢人が琉球の国事について語り合った場所なので「三文殊」と呼ばれるようになり、いつしかそれが「サンモウジ」に転訛したと伝えられています(西村捨三著『南方記事外篇』参照)
一方、「サンモウ」は紗帽と呼ばれる被り物、「ジ(シー)」は岩を意味するので、「紗帽のような形の岩」が語源ではないかともいわれています(東恩納寛惇著『南東風土記』参照)。
サンモウジは那覇市の地理や歴史を知る上で重要な場所の一つです。令和4年 那覇市市民文化部文化財課
一方、隣の料亭・左馬はなくなって久しいのですが、いま建っている高齢者福祉施設の玄関横には、馬の像が飾られていました。
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