奈良時代に全国の国ごとに建てられた国分寺・国分尼寺ですが、国によっては文献や遺構から所在地がはっきりしているもの、発掘調査で伽藍配置まで分かっているところもあります。がしかし、摂津国においては、所在地も今ひとつよく分かっていません。
じつはNo.177の城南公園で登場した「国分」という地名は国府ではなく国分寺に因むものだという説もありますし、淀川右岸のズバリ「国分寺」という町にあったという説もあります。ただし、大阪市教育委員会が有力と考えているのは、この国分公園の一帯であるということです。
とは言え、現在の公園には石碑と案内板のほかには、とくに国分寺跡に因むものはありません。
■現地の解説板より「摂津国分寺跡」
奈良時代の国家は、災害や外敵からの保護をはじめ五穀豊穣などの利益を仏教によって祈るため、各国ごとに官営の寺院である国分寺(国分僧寺)と国分尼寺を建立した。地名などによる研究のほか、近年の発掘調査により国分寺と国分尼寺の所在地や伽藍配置がはっきりと確認されていいるところもある。しかし、摂津国については国分寺と国分尼寺の所在地や建立後の変遷について具体的にはわからない。国分寺については天王寺区国分町のほかに、北区長柄と中央区森ノ宮中央に「国分」もしくは、「国分寺」の名が残り、そのいずれを奈良時代の国分寺所在地に当てるかについて諸説がある。この天王寺区国分町の国分町公園とその周辺からは奈良時代の古瓦が出土しており、この地を奈良時代の国分寺と考える説が有力である。(平成7年3月 大阪市教育委員会)
公園は大きく上下2段に分かれていますが、段差部分は斜面ではなく、コンクリートの垂直壁と階段とではっきりと区切られています。
上段には大きなケヤキの木、立派にフジが絡んだパーゴラ、砂場、ブランコ、滑り台などがあります。
いっぽう下段には広場の中心部に、大・小2つの滑り台が置かれています。
あえて広場の中ほどに遊具を置くのは、ボール遊びをさせたくないという意思を示しているのかと、上下段の境になる壁を見ながら考えます。
そしてこの公園にも地蔵堂がありました。天王寺区の公園は、地蔵率高めです。
(2012年8月訪問)






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