園内には小学生の書いたポスター専用の掲示板があり、小学校や地域との繋がりが感じられます。
小学生の書いたポスター |
じつはこの公園も関東大震災からの復興公園の一つで、もとは江東公園という名前でした。
本ブログに今までも登場してきたように、東京都心の小学校は関東大震災と戦災とで潰れたり建て変わったり、さらに近年の統廃合で名前が変わったりしてわかりにくくなっていますが、公園ができた時には小学校の方も江東小学校という校名でした。
当初整備時の平面図(『日本公園緑地発達史』より) |
さて、当初整備からはずいぶんと姿が変わっており、現在は小学校の隣にあるせいか、広さの割に遊具が充実しています。
まず「山」遊具。クライミング、滑り台、さらには砂場として、遊び方は無限大です。
山遊具の斜面だけでは物足りない子供達のために、垂直のクライミング壁もあります。
クライミング壁 |
山の次は海。遊具広場には、海賊船らしきものがあります。
なぜこれが海賊船かと言うと、となりに海賊ブランコがあるから。なぜ顔が二つあるのか、なぜ胸が吹き抜けになっているのかなど悩みどころはありますが、見まごう事なき海賊がグッと腕に力を入れてブランコを支えています。
海賊船 |
海賊ブランコ。と書くと、カリブ系の海賊の名前みたいです |
そして忘れてはならないのが、公園中心の土俵?広場。ちょっと違うような気もしますが、両国に丸いものがあれば土俵としか思えません。
公園のすぐそばにニ所ノ関部屋、時津風部屋がありますので、きっと若い力士達が散歩の途中にここで土俵入りのまねごとなどしているのではないかと想像します。
土俵、ですよね? |
がしかし、じつは土俵広場は本当はラジオ体操のための場所なのです。広場正面にはリーダーが手本を示すためのお立ち台があり、はっきりと「ラジオ体操広場」と書かれていました。
「ラジオ体操広場」の標柱はともかく、このステージとパーゴラは開園当初からあるもののように思われます。
さらにさらに、じつはこの公園は勝海舟生誕の地でもあります。石碑やら解説板やら並びすぎてわかりにくくなっていますが、「1823年、父の実家であった男谷家のあったこの地で生まれた」旨が記されています。
せっかくの石碑なので、ごちゃついた後ろの建物との間に植栽を入れて空間を区切ったり、逆に解説板の前の灌木植栽は取り除いて近くで見られるようにしたり、ちょっとした改修をするとずっと見やすくなると思いました。
立ち並ぶ碑。どれも今ひとつ的を射てない説明が書かれています。 |
なにかと盛りだくさんな両国公園でした。
●墨田区による公園紹介ページ
●震災復興52小公園に詳しいページ
●神奈川大学 関東大震災・復興データベース
(2012年8月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿