有馬温泉にはいくつかの泉源がありますが、その泉質は鉄分と塩分が多く湧出すると茶褐色になる「金泉」と、無色透明の炭酸泉の「銀泉」とに分かれます。日本書紀にも記載され、豊臣秀吉も度々訪れたという有馬温泉の歴史の大半は金泉だったのですが、明治初めに炭酸泉(銀泉)が見つかり、現在に至ります。
そんな炭酸泉源の一つの周りを公園にしたのが、炭酸泉源公園です。
温泉街の中心から、地獄谷と呼ばれる方面へ向かう途中の山裾にあり、呼び名は公園ですが、平場や施設は少ないので、どちらかと言えば緑地と呼ぶのがふさわしい場所です。
件の泉源はというと、お堂のように立派な屋根下に、ありがたく収められています。
それが、こちら。真上から見ると視力検査のランドルト環のような形をした井戸から自噴して、周りに流れ出す形になっています。
物件全体のサイズからして、昔はもっとゴボゴボと泡立ちながら湧いていたものと思いますが、今は水量も少なく、眺めてみてもハテナという感じではあります。
井戸とは別に、すぐ横に飲用の炭酸水道もあるのですが、この日は休日でひっきりなしに人が集まっていたので、近接の写真はなしで。
こちらは、明治初めに炭酸泉を初めて見つけた梶木源次郎を称える石碑。
1907年(明治40年)に建てられたもので、碑文は漢字ですが、横にすごく要約した解説板があるので、内容はなんとなくわかります。
■現地の解説板より「炭酸泉について」
左にある碑には、炭酸泉の発見の経緯や発見者の功労について記されています。要約すると、明治六年に湯山町戸長の梶木源次郎が横浜の平野留七(転記注釈:石碑には”留吉”とある)という人から湯山町杉が谷に炭酸ガスを含む泉が湧くところがあることを聞き、毒水と呼ばれ、人が近づかなかったこの泉を思い出し、その後、兵庫県庁に要請し、内務省司薬場の検定を経て、炭酸泉を開いたということです。
また梶木源次郎は、道路の改修や地租改正などにも尽力し、地元の人々がその功績を讃えて、この碑を建てたことも記されています。
ここの炭酸泉は、もう毒水とは呼ばれないのですが、公園をちょっと出て200メートルほど歩いたあたりには「鳥地獄」や「虫地獄」という石碑があり、一帯が「地獄谷」と呼ばれています。
現代でも、動物の殺処分や果樹の昆虫駆除に高濃度の炭酸ガスを使うことがありますが、屋外で自然に吹き出すもので、そこまでの効果があるのかと言えば、少々疑問です。
「寄りつかない」くらいの状態を、「地獄」と表現したのでしょうか。
中には「炭酸地獄」もあって、これなどは何に対する地獄なのか迷ってしまいます。鳥向けや虫向けとは違う文脈の地獄なのでしょうか。
いずれにしても、別府の地獄めぐりほどの派手さはありません。
ちなみに公園に戻ると、機械の力でゴボゴボと泡が吹き出し、往時の姿を再現したかのような池も作られています。
お土産には炭酸せんべいを買って帰るしかない炭酸泉源公園でした。
(2023年2月訪問)
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