丁と書いて「よろ」と読む丁公園。
No.3465 熊見池田公園で「よふど」が「よろ」に転じたことは学びましたが、丁を「よろ」と読むことが身に付いていないので、なかなか難しい地名です。
さらに現地に行ってみると、勝山町公園(丁公園)、丁古墳公園と呼び名の違う看板が掛かっていて、みんながこの公園を何と呼んでいるのかが気にかかります。
■現地の解説板より「丁(よろ)古墳公園」
左図のように、このあたりの山の尾根から谷全体に「ひさご塚」をはじめとして90余の古墳があった。
昭和36年から43年までに、そのうちの17基が発掘調査され、土器や鉄刀、やじり、馬具、耳飾、首飾、などが数々発掘された。これらの古墳は、5世紀中頃から7世紀中頃までにつくられたものであることがわかった
この公園内には、5基の古墳がもとのまま残され、当時のようすをよく伝えている。このうち西端の一基は奥行き9メートル余ある大規模なもので、内部に家形石棺を安置し、石積みも丁寧で横穴式石室の典型的なものである。平成17年9月 姫路市教育委員会・姫路市文化財保護協会
階段を登って園内に入ると、まず正面に砂場、その奥に滑り台があり、四角い整った敷地の中に遊具がある区画整理タイプの児童公園なのですが、少し視線をずらすと、右にも左にもポコポコと墳丘が飛び出しています。
まずこれが解説板にあった「西端の奥行き9メートル余ある大規模な」円墳でしょう。
一部露出した石組みが南に向かって開口しており、フェンス戸の向こうに玄室が観察できます。
フラッシュを焚いても奥まで光が届いていませんが、「内部に家形石棺を安置」している様子も見えます。
でも石棺が立ち上がっているわけではないので、全体的に埋まって石棺の蓋石が見えているのか何なのか、よくわかりません。
露出している石室天井の上に立ち、園内を眺めると、砂場の向こうにも墳丘が見えます。
こちらの2つ目の方が、墳丘サイズは大きいでしょうか。
でも解説板では、石室の石積や石棺の残り具合などから総合的に判断されて、詳しい解説は省略されたのかも知れません。
3つ目は、東端にある墳丘。
横穴式石室が露出しており、柵のところから玄室を覗き込むことができます。
裏側から、墳丘の上に通じる踏み分け道ができていました。
4つ目は、縁石で円形を保ちつつ、露出した石組みを保存しているもの。とは言え石組みは潰れていて、玄室は草の中に埋もれています。
解説板には「5基の古墳がもとのまま残され」とありますが、現地では5つめがどれかよく分からなくて、近寄った写真を撮りそびれてしまいました。
後から資料で確認すると、ブランコの向こう左側、チラッと石が見えているのが、それに当たるようです。
なんでそうなったかというと、西端の最初に出てきた円墳の北側にも大きな石が転がっているがあって、これを5つめだと勘違いしたのです。
「石室が崩れたにしては崩れ過ぎなので、園内を整備した時に危ない石だけを取り除いて、集めてあるのかな?」とは思いはしたのですが、ほかの露出しているのも大差ないといえばそう見えて、これだと思ってしまったのですが、改めてよく見ると、保存してある墳丘は外周部に縁石を入れてありました。
同じように墳丘の合間を縫って、土管遊具が置かれています。
古墳の中、石室に入ることはできないので、これを使って疑似体験をしなさいということでしょうか。
こちらのバージョンは手足が伸びているので、謎の土管人間のようにも見えます。
そして、各地の公園で時々見かける顔付きのスツール。しかし、ここにあると古代の遺物のようにも見えます。
「古代の儀式に用いられたという鳥の仮面をモチーフに」とか言われても、信じてしまいそうなデザインです。
おまけ.
ついでなので、解説板にあった瓢塚古墳にも行ってみました。
丁公園からは西へ400メートルほど離れ、西播磨地域では最大級・全長100メートルほどの前方後円墳で、国史跡にも指定されています。
でも、墳丘自体の保存はされているのですが、とくに整備はされておらず、墳丘の際すぐのところまで民家が立ち並んでいるので、見学するには今ひとつ。
史跡を公園にすることの意義を再認識する結果となりました。
(2023年4月訪問)
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