尼崎市大庄にある素盞鳴神社の前を通り過ぎようとしたら、不思議な看板が目に止まりました。
「たったブランコ一台だけの公園があります」と言われたら、本ブログとしては覗いてみないわけにはいきません。
とは言え小さな境内で、標柱や鳥居から拝殿までは一直線に見渡せるほど。どこに遊び場があるのでしょうか。
少し歩くと、参道右手の物陰に確かにありました。ブランコ一つだけの小さな公園が。
遊具は2連ブランコが一つだけですが、神社境内にベンチが置かれることは意外に少ないので、ブランコ横のベンチも公園施設ではないかと考えます。
ブランコ前のスペースがそこそこ広いので、もしかすると、以前は滑り台かジャングルジムくらいもあったかも知れません。
確かにブランコ一つだけなのですが、狭い場所に詰め込まれているわけではなく、ご神木を見上げる境内の一角にあるので、なかなか気持ちの良い遊び場だと言えます。
ただ、現地では園名板などは無く、尼崎市の施設としての名前が分からなかったので、帰ってから調べると、西栄地(にしさかえち)子ども広場(992平米)がこれに当たるようです。
でもブランコ周りだけで1,000平米近くもないので、社殿や社務所などの建物を除いた境内地のかなりの範囲が、子ども広場として設定されているようです。
ということは、灯籠の横に置かれたこの物件も、こども広場の中に含まれる可能性がゼロではありません。
その作りから船舶関係の何かであることは分かるのですが、いったい何だろうと思って良く見てみると台座のところに説明が刻まれていました。
少し小さくて読みにくいですが、別に石碑を建てて解説するよりも、コンパクトで理にかなっています。
■台座より
明治27~8年、日清戦役旗艦橋立、表上甲板の CAPSTAN ロクロナリ
昭和元年赤井氏が其艦ヲ拂下ゲ之ヲ本神社ニ献納紀元二千六百年 赤井常吉
奉納した赤井常吉氏については、CiNiiに掲載の梅溪昇『明治三十八年旅順口閉塞船第五群船舶払下げ関係史料について-第二回閉塞船福井丸解体引揚げ作業余聞との関連を中心として-』という論文に、日露戦争時の旅順港閉塞作戦に投入された福井丸の引上・解体に従事した経験があり、昭和初期には大阪で船舶業・艦船解体業を営んでいた西宮在住の同名氏が登場するので、その人物なのだろうと思います。
さらに歩いていると「中国街道 西新田の渡跡」の碑がありました。
「契沖の顕彰碑は、東方100メートル余りの口ノ開公園にあります」とだけ刻まれており、確かにNo.338 口の開公園で碑を見た記憶はあるのですが、渡跡とどういう関係があったのかまで覚えていません。
過去記事に遡って確認すると、契沖が高野山から中国街道を通り、姫路まで行く途中に武庫の浦(武庫川河口付近)の景色を歌に詠んでいるという話でした。
看板に誘われて入って見れば、滑り台一つだけではなく、広瀬中佐や契沖のことも思い出させてくれた素盞嗚神社の西栄地子ども広場でした。
(2023年4月訪問)
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