JR桜木町駅は、元々は横浜港に面する初代・横浜駅として開業した駅です。そこから北に少し歩いたところに、横浜開港に功績があった井伊掃部頭直弼の銅像がある掃部山(かもんやま)公園があります。
そう書くと「銅像が建ったから掃部山と呼ばれるようになった」話なのかと思ってしまいますが、話は逆で「直弼を顕彰するために山を買って掃部山と名付け、後から銅像を建てた」ということのようです。
横浜市のHPと現地の碑文、解説板とでは情報のポイントや年次が結構違うのですが、あわせればそういう話になります。
まず横浜市西区役所HPにある「西区歴史さんぽ道パンフレット」から。
掃部山(かもんやま)は、江戸時代には「不動山」と呼ばれ、明治に入ってからしばらくは「鉄道山」と呼ばれていた。鉄道建設のとき、この地が事業の拠点になっていたことに由来する。山手の外国人墓地に眠るE.モレルをはじめ、鉄道建設のために来日した外国人技師の官舎がここにあった。鉄道開通後も、ここの湧き水が鉄道用水として利用され、紅葉橋から花咲町一帯は鉄道用地となっていた。
鉄道山が掃部山に変わったのは明治17年(1884)。旧彦根藩士の有志が、元藩主の井伊直弼(いいなおすけ)の記念碑建設のため購入し、この山を公園にした後、大正3年(1914)井伊家から市に寄付された。
いつもお世話になっている日文研の所蔵地図データベースで1885年(明治18年)の『改正銅版横濵地圖』を見ると、文章の前半部分の様子が残っています。現在は県立図書館や青少年センターが建つあたりには官舎(カンシャ)が建ち並び、公園となっている部分には外国人技師が住んでいたのであろう異人ヤシキがあります。
続いて銅像の裏にある碑文は昭和29年の再建時のものですが、 ”明治14年(中略)戸部町に一丘を購い、掃部山と称してここに造園を施し、明治42年園内一角に銅像を建立し、越えて大正3年、園地とともにこれを横浜市に寄附した” と刻まれています。
山を買った年がパンフレットよりも3年早いことが気になるのですが、上で引用した明治18年の地図にまだ異人屋敷が載っていることを考えると、山は買ったものの公園化して掃部山と名付けるまでには少し時間がかかったのかな、と好意的に考えます。
同じく日文研のデータベースで、銅像が建つ以前の1905年(明治38年)『横濱明細新圖』を見ると、ここですでに掃部山と書かれていますので、パンフレットと碑文に記された経過で大体あっているのかな、と思います。
最後に現地の解説板。
この解説だけ「掃部山になったのは、銅像を建てた1909年(明治42年)だ」と書いているのですが、上で引用した1905年の地図があるので、これは誤りだとわかります。
■現地の解説板より「横浜市地域史跡 井伊掃部頭ゆかりの地」平成5年11月1日登録 所有者横浜市明治42年7月、横浜開港50年記念に際して、旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老井伊掃部頭直弼の銅像を戸部の丘に建立し、その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。
当時の銅像は、藤田文蔵、岡崎雪声によって製作され、その姿は「正四位上左近衛権中将」の正装で、高さは約3.6メートルを測りました。しかし、当初の銅像は、昭和18年に金属回収によって撤去され、現銅像は、昭和29年、横浜市の依頼により慶寺丹長が製作したもので、その重量は約4トンあります。なお、台石は妻木頼黄の設計で、高さは約6.7メートルあり、創建当初のものが残っています。平成6年3月 横浜市教育委員会
そして1924年(大正13年)の『横濱市全圖 : 大正調査番地入』では、立派に公園名が掲載されるまでになりました。ただし、この資料では掃部山の掃部公園で、掃部山公園ではありません。
それにしても、以前に訪ねた神戸のNo.907 大倉山公園は「伊藤博文の銅像を建てることを条件に、山を一個まるごと」寄付されて公園になったものでしたが、こっちは銅像を建ててから市に寄付したのですから、神戸よりも条件は良いかも知れません。
でもNo.907は面積が3倍くらいあるし、阪神・淡路大震災で壊れるまで使えた別荘の建物付きだったので、どっこいどっこいかなぁ。
さて、現在の掃部山公園ですが、大まかには山の頂上で井伊直弼像が建つ銅像広場、少し低い場所にある遊具広場、2つの間の滝や池がある園地という3本立てになっています。
銅像広場は、いかにも偉人を顕彰する広場という感じですね。もちろん震災や戦災もあって、何度も改修はされていると思うのですが、中央の壇上に置かれた銅像を見上げるしかない構造です。
銅像は北東方面を向いており、みなとみらいの高層ビル群がよく見えます。
きっと昔は海を望む景勝地だったのでしょうが、今はビルの隙間からもまったく見えません。
上段にあがった一角には、解説板に記載があった直弼の三男である「子爵井伊直安から寄付された水飲み」が残っています。
水飲みとしては現代のものとかなり形が違うのですが、上の丸いところからチョロチョロと垂れてくるのを、自分で掬って飲むのでしょうか。
銅像が建つ広場から少し下りたところに、関東大震災後につくられたという日本庭園がありました。
それほど大きなものではありませんが、滝・流れ・池・紅葉・灯籠など一通りのものは揃っており、広場とはまた違った趣があります。
ただ、滝はもう少し周りの植物を整理して、目立たせてあげたいように思いました。
そして最後は遊具広場。ここだけでも小さな街区公園ひとつ分くらいの広さがあるので、訪れた時は多くの子供たちで賑わっていました。
(2023年1月訪問)
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