No.3260で登場した大堀川を渡って、旧・小浜宿の南門へと上っていく坂の途中に、「首地蔵」というお地蔵さまが祀られています。
お地蔵さまだけなら本ブログとしては通り過ぎることになるのですが、これの周りが園地になっていたので、公園として記録します。
現場はこちら。川沿いから宿場へ向かう急な斜面地を上るために、軽く曲線を描いた坂道が作られており、そこからさらに階段を上った先にお地蔵様が祀られています。
階段をのぼる前にもいくつかお墓や石仏のようなものが祀られており、昔ながらの村の出入口という雰囲気があります。
お墓の中でも一際大きいのが、小浜出身の力士・谷風岩五郎の墓です。
活躍したのは明治初期、ということは大坂と江戸東京の相撲界が分かれていた時代に、大坂で大関まで昇りつめた力士だそうですが、詳しいことは知りません。
でも、若い時の四股名“若の柳安太郎”は、どうにも落語家っぽさが出ているので、“谷風岩五郎”に改めたことが出世につながったのではないかと思います。
■現地の解説板より「谷風岩五郎の墓」江戸末期小浜の米穀商(屋号米鶴)に生まれた。10才で米一俵を持ちあげたといわれている。18才で相撲界に弟子入りし、5年後前頭まで出世した。四股名を若の柳安太郎と改め、明治5年(1872)故郷に錦を飾り皇大神社境内で大相撲が開催された。 明治9年に大関に昇進し、谷風岩五郎と改名した。
改めて、首地蔵正面の階段から段上を眺めます。
首地蔵の本体は見えませんが、幕がかかったお堂のようなものが見えるので、「そこに首地蔵が祀られているのだろう」と思って上ってみると、意外な光景が広がっていました。
で、冒頭の写真のシーンに繋がるのですが、驚きポイントは次の2つ。
- お堂があるのに、なんで雪が降る外に祀られてるの!?
- 首地蔵って、1体じゃないの!?
1つ目の驚きについては、現地の解説板に理由が書かれていました。
お地蔵様は、お家に入るのをお嫌いになっているからだそうです。
■現地の解説板より「小浜の首地蔵」大昔小浜がまだ浜辺であった頃、打ち上げられたとか、伊丹の殿様の夢枕にお告げがあり持病の頭痛を治してもらったお礼に刻んだとか、これを土地の人々がこの高台に運び上げ、お堂を建て安置しようとしたところ、大工が病気で倒れてしまい、代わりの大工に依頼してお堂の建立にかかりましたが、その大工も病気になり、この現象を見て土地の人々は、きっとお家にはいるのをお嫌いになっているのでしょう。と雨ざらしのままお祀りすることになったと伝えられています。
2つめの謎は現地ではわからなかったのですが、家に帰ってからネット検索してみると、もともとは室町時代以前から祀られている白っぽい方のお地蔵様だけだったものが、1975年(昭和50年)に火災にあって一部が欠けてしまったため、黒っぽい方が新たに安置されたということのようです。
確かに、正面を2代目に譲って隠居ポジションに移った白っぽい方は、口元あたりが少し欠けているように見えます。
しかし、お堂にも入っていないのに石材が欠けるほども焼けるとは、いったいどんな火事だったのかと少し不思議に思います。お地蔵様に直に火が当たり続けなければ、こうはならないと思うのですが...
園地の方に回ると、1977年(昭和52年)に建てられた小浜首地蔵再建奉賛会の石碑がありますので、2体体制になってからでもすでに40年以上。後の世までも守りたまわむことを願います。
で、肝心の園地部分ですが、お地蔵様よりもひとつ低い段を使って、やや変形ですが10メートル四方くらいの広さが取られています。
訪れたのは真冬で雪が積もり始めていますが、竹垣に囲まれて、サクラやモミジが植えられた和風仕立てになっており、参拝の前後にちょっと休憩するにはほどよいサイズです。
おそらく、ここも1977年の地蔵再建時に整備された園地ではないかと思うのですが、東屋などは40年以上経過したものには見えないので、どこかで一度リニューアル整備が入ったのかも知れません。
バリアフリー的な視点も含めて、欲を言えば園地からもお地蔵様を見上げるルートが開いていれば良かったのですが、そこまでは地形が許してくれない小浜首地蔵の公園でした。
(2023年1月訪問)
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