沖縄の難読地名の中でも、No.2665の勢理客(ジッチャク)と並んでかなり上位に来る保栄茂(ビン)の集落内にある保栄茂馬場公園は、その名の通りかつての馬場“ンマイー”を現代の公園としたものです。
沖縄の伝統的な馬乗り競技”ンマハラシー”は、琉球王国時代の上流階級の遊びとして始まり、明治以降に庶民にも広まって村々に馬場が作られましたが、戦中には廃れてしまいます。2頭の馬が並んでまっすぐ走り、速さではなく足運びや姿勢などの美しさを競い合うものだったので、馬場は直線的で細長く、戦後は道路に転用されたところも少なくありません。
一方で、年中、馬が走っていたわけでもないので、ふだんは集落内の広場としても使われていたと思われ、その流れで公園として活用されているところもあります。ここもその一つではないかと考えます。
ただ、沖縄県埋蔵文化財センター調査報告書第16集『沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅲ-北部編』によると「1928年(昭和3年)に御大典記念として字運動場を建設」と書かれているので、そもそもが「ンマハラシーもできる多目的運動場」として整備されたものなのかも知れません。
でも、現地の解説板には「時期は不明であるが、現在地に移動したと伝えられる」とも書いてあって、詳しい経過はわかりません。
■現地の解説板より「字保栄茂(びん)の馬場と十五夜」
馬場(ンマイー)は県内各地にあった琉球競馬(走る美しさを競う競馬)を始め、地域の大きな祭りや集まりで使われた広場である。豊見城市内にもかつては9ヵ字に存在していたことが分かっている。その中のひとつである保栄茂の馬場は、地域の一大行事である十五夜(豊年祭)などが行われ、現在でも往時とほぼ変わらない風景を今に伝えている。
馬場は元々ナカミチ(市道24号線)にあって、時期は不明であるが、現在地に移動したと伝えられる。戦前は、馬場の東南側の端に溜め池のンマイーグムイやンマイーヌチビ製糖所があり、西側にはンマイー製糖所とカナチグチ製糖所もあった。また当時はサトウキビや稲・大豆など農作物の収穫時には作業場や収穫物を干す場所としても利用された。東南側にはコージャーヤー(龕屋)が、馬場のスタンド中央には御大典記念碑(1928年造)も現存している。
馬場で行われる十五夜は、毎年旧暦8月15日~16日に行われる保栄茂の一大行事である。豊見城市内で唯一のミルク神を始め、大きな旗頭、綱引き伝統舞踊等が披露される。とくに六年毎の卯年と酉年はマールドゥシ、アタイドゥシ、ニンマール、大豊年祭等と呼ばれ、より盛大に行われ、そのときにだけ行われる演目に「マチ棒(巻ち棒)」がある。
マチ棒は、保栄茂の男性が参加する集団の棒演技である。マチ棒の型は「タカマチ」といわれ、大空を雄々しく旋回する鷹の群れの様子を表現したものとされる。馬場全体を使い、棒を担いだ群衆の一糸乱れぬ動きが特徴である。地域では200年以上前に始まったと伝承されている。一時中断した時期もあったが、大正初期頃に従来のマチ棒を基礎として現在の型を再興したという。また、終戦直後、物資の乏しい時期には、保栄茂出身のハワイ移民者から衣装や小道具類等が送られるなど、多くの出身者や地域の人々に支えられ、今や保栄茂の“誇り”として内外に知られている。
現在でも往時の風景を残し、地域に親しまれる馬場は、保栄茂の人々に大切にされている場所である。
解説板に出てきた「馬場のスタンド」は、構造や劣化度合いからみてここ30年くらいの間に公園施設としてつくられたものだと思うのですが、昭和3年(1928)に青年団が建てたという昭和天皇即位の御大典記念碑は、このスタンドの中央部に建っています。
スタンド整備の際に、ほぼ原位置を保ちつつ移設されたのかも知れません。
よく見ると、やや素材の違う頭頂部に、一部は読み取れないのですが「F.H 1981...19日」?と彫り込まれており、ここでも経過がよくわかりません。1981年に碑を補修した人が、記念に日付を残したのでしょうか。
改めて園内ですが、馬場であり多目的広場でありという機能を最大限に発揮できるよう、おおむね25×130メートルくらいの細長い一面の広場で、小さな休憩所、四阿のほかに目立った施設はありません。
ただ、一番端っこは草芝が途切れていて、ゲートボール場として整備されています。
そのゲートボール場の横に保存されているのが、地区の龕屋(ガンヤー)です。
龕(ガン)とは、葬儀の際に死者を運ぶための輿のことで、集落共有の財産です。これをしまっておく建物が龕屋なのですが、ガンとかガンヤーは沖縄本島で一般的な呼び名で、ここ保栄茂ではコージャー、コージャーヤーと呼ぶそうです。
■現地の解説板より「保栄茂のコージャーヤー(龕屋)」
この建物は、「龕」(死者を運ぶ屋形型の輿)を保管する建物で、字保栄茂では龕本体を「コージャー」または「アカンマー」などと呼び、龕屋のことを「コージャーヤー」または「コーヤー」と呼んでいる。このコージャーヤーは、大正時代に集落内ウドゥンモーにあったものを現在地に移したものだという。
伝承によれば、字保栄茂の龕は、隣接する波平集落(糸満市字北波平)が元々所有していたものを、保栄茂が所有していたシーサーと交換したものであると伝えられている。かつては野辺送りの際、龕に死者を納め、担ぎ手によって墓まで運んでいたが、戦後は火葬の普及により、昭和33年(1958)を最後に使われなくなった。また地元だけでなく、龕を所有していない翁長や渡嘉敷、さらに阿波根や北波平など周辺集落にも貸し出されたという。
コージャーヤー内部には現在も龕が納められており、かつては卯年と酉年に龕の修復をする習わしになっていたが、使われなくなって以降は龕本体の傷みはかなり進行しているという。
現在のこの建物は、屋根や壁などに改修が施されているものの、建物側面の石組みなど創建当時の状況を垣間見ることのできる市内でも貴重な建造物である。
毎年旧暦8月9日の「コーヌユーエー(龕のお祝い)」のときには祈願が行われているとともに、6年に一度の大豊年祭にはコージャーヤーの前で供物や奉納舞踊等が捧げられ、字民の無病息災と五穀豊穣が祈願されている。
県内に残るほかのガンヤーもそうであることが多いのですが、ここでも古い時期に建てられたものが戦後しばらくまでは使われていたため、元々の石積みの建物をコンクリートで補強したり屋根をかけかえたりしていて、構造が複雑になっています。
とくにここは植物に覆われていて見えないところが多いため、わかりにくさが増しています。石積み壁の上に木屋根をかけて、それをトタンに葺き替えている現状なのでしょうか。
また、壁沿い外側に風除けのための土盛りがされているようにも見えるのですが、それも真相はよくわかりません。
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