3070/1000 せせらぎ公園(沖縄県豊見城市)

2022/07/30

沖縄県 豊見城市 湧水 緑道

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豊見城団地の近くにトゥドゥルチガー(轟泉)という湧水があり、かつては豊富な水量を誇り飲み水や農業用水として使われていたそうです。

いまはすっかり市街地に囲まれてしまっているのですが、下流約450mに渡って水路沿いの遊歩道がつくられ、せせらぎ公園として開放されています。

■現地の解説板より「トゥドゥルチガー(轟泉)」
トゥドゥルチガー(轟泉)は、字高嶺公民館の南東約150m、県道7号線沿いに位置し、所在は字平良に属する。
琉球王府が1731年に編纂した『琉球国旧記』の中では「平良井(平良轟)」と記録され、およそ300年前から貴重な水源として大切にされてきた。また、島尻と那覇とを結ぶかつての宿道沿いにあって、当時から街道を往来する人々にも頻繁に利用されたという。
18世紀末頃に作製された『琉球國惣絵図』の中にも、平良村と高嶺村の間にある道筋に「樋川」として描かれている。
昔から洗い物や水浴びなど暮らしに幅広く使われ、干ばつ時にも涸れることはなく、水不足で困窮した近隣の村から汲みにくるほど水量豊かであったという。また、その水源利用は周辺集落にとどまらず、明治末期までは、轟泉の余り水を引いて志茂田平野へ出る灌漑用水路(”シィードーミチ”と呼ばれた)があり、そこから稲作田に水を引き、幾多の利益をもたらした。
戦後も簡易水道の水源として引続き使用され、一時、字上田に所在した豊見城村役所(当時)周辺まで、この湧き水から導水し使用した時期があったという。現在では周辺環境の開発等により、以前に比べ水量はだいぶ減っている。字平良および字高嶺が「初拝み」、「五月ウマチー」などに拝んでいる。
1995年(平成7)には、トゥドゥルチガーおよびその流域は水源を活用したせせらぎ公園として整備された。いまも地域住民の信仰の対象として、また憩いの場として大切にされている。

周囲の道路からは一段下がったところの小さな池がせせらぎの始まりです。
「轟」と言われて農業用水や水道にも使っていたということなので、元々はもっと轟々と流れ出していたのでしょうが、今は落ち着いたものです。

公園として整備された時点では、壁の上にも水景設備があり、突き出した樋から池に水が落ちてくる樋川(ヒージャー)方式にしてあったようなのですが、訪れた時には流れていませんでした。
また、周りを囲む石材は年代物のように見えるのですが、平成初期の整備の時に組まれたものなのか、それ以前からあったものかなど、詳しいことはわかりません。

このミンサー織りが巻き付いた柄杓が公園としての樋川の水源らしいのですが、いったいどのように水が出ていたのでしょうか。織物の裏側と柄杓の柄にパイプが仕込んであるのかな?

ここからせせらぎに沿って、ずっと遊歩道が続きます。公園になる前から流れがあった場所なので、周囲から見るとやや谷地になっており、家々の裏側を縫うような格好です。

園路沿いには、ところどころにポンプや井戸らしきものがあります。正確なことはわからないのですが、はじめの池のところから流れ出る水だけで最下流まで流しているわけではなく、途中でも水を足しているのではないかと思います。
またこれには、周囲から雑排水が流れ込むなどしてせせらぎの水が濁ることを防ぐという目的もあるのではないかと考えます。

でもだんだん水路が複雑になってきて、「せせらぎなのは、見せかけではないか?」と考え出します。
下写真で、左側の小さなガケから出てくる雨水は、園路沿いの側溝には入らずに、枡で受けて地下の暗渠に落としているように見えます。右側から来ている水路と地下で合流しているのでしょうか。ということは、地上部にはせせらぎを人工的に作り直していますが、地下には元々の轟轟とした流れが隠れているのではないでしょうか。
また園路沿いの蓋がかかった溝は園路に降った水を受ける側溝ではなく、せせらぎを流れてきた水を分流させて下流に引っ張る分水路で、流れてくる水量が多い時だけ橋下の石積みを越えて水が流れ、少ない時は分水路に入ってしまう構造のようです。

分水路の通じている先はこうなっていて、せせらぎの本流は地下に飲み込まれていき、代わって分水路を通ってきた水が新しい本流になります。
公園の水路として考えると450メートルという距離は相当な長さですし、流れている間にも周りから入ってくる水を処理したり、一般道と交差したりしないといけないので、いろいろと土木的な工夫がされているようです。

交差しているのは一般道だけでなく、ところどころで路地のような細道から公園内に入ってくる道も作られています。

市道と交差する橋のところでは、せせらぎはいったん途切れます。撮影場所の都合で、ここだけ下流側から上流側を振り返っています。

橋の上から下流側を眺めます。この橋の周りは少し敷地幅が広くなっており、中間の休憩園地のような形になっています。

ここまで歩いてきたところは、幅が狭いのでベンチを置くには窮屈でしたが、ここで一休みできます。

敷地幅に若干の余裕が出たからか、せせらぎの演出も少し変わって、滝を作ってみたり、

右側の茂みの奥にあえて隠してみたりしています。

コンクリート擬石の照明器具など、設備にも凝ったものが登場します。もしかすると上流側にもあったのに、石だと思って気づかなかったのかも知れません。

さらに100メートルほど歩いて、最下流の園地付近に来ました。
ずっと左岸側を歩いていたのに、途中で道とせせらぎとが交差して、ここだけ右岸側になります。

そしてせせらぎの終端末。小さな排水口に吸い込まれていく姿は、ここまでずっと流れてきたにしては、ちょっと寂しい終わり方です。
もっとも、この場合の”華やかな終わり方”というのも、あまり思いつかないのですが。

この周りが東屋などのある小園地になっていて、一連の公園はここまでとなります。

ところが、ここから一般道を渡った先が険しい谷になっており、ここへ通じる階段道があります。正確に言えば「あった」ようなのですが、私が訪ねた時には途中で封鎖されて、谷へと降りることはできなくなっていました。

それでも行けるところまで行って、灌木の間で背伸びをしながら撮影したのが下写真。これが「轟の滝」で、せせらぎから出た水がここに繋がっているようです。

もう少し拡大してみると、冬で水が少ない季節ということもあって「轟く」ほどではありませんが、まぁまぁな流量があります。
さっきのせせらぎの末端のパイプから出てきた分だけでこの量になるとは思えないので、やっぱり遊歩道の下に暗渠があって、そこに見えていない大きな流れがあったのだろうと思います。

万人の心を清らくなすせせらぎ公園でした。

(2022年2月訪問)

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