神戸市のJR灘駅の北側一帯は、明治の町村制施行までは菟原郡原田村(うばらぐん・はらだむら)に含まれていました。この原田村に熊野の若一王子が祀られる社があり、王子神社あるいは原田神社と呼ばれていたそうです。
この神社の位置も時代によって動いているようなのですが、戦後になって当時の境内地を神戸市が入手して動物園や陸上競技場をつくります(神社は遷座)。その時に王子動物園、王子公園という名が付けられ、後に阪急電車の駅名も王子公園駅に改称されたこともあってか、今は原田よりも王子の方が地名としては優勢なように思います。
と言うことで、王子動物園の道向かいにある王子町公園と王子街園。でも所在地は灘区原田通で、王子町公園の隣には遷座した王子神社が今も祀られています。
まず東側にある王子街園から。
「街園」に明確な定義はないのですが、神戸市の場合は、新道開設や道路線形の変更で余った土地を緑地にする場合に「街園」と名付けているように思います。
東端から見るとその特徴がよく出ており、下写真で左側が明治以前からあった元々の道路、右側の歩道付きの道路が戦後に敷かれた通称・原田線で、その分岐にあたる三角地を使っていることがよくわかります。
反対の西端から見ると、歩行者メインの旧道は斜面地形の等高線に沿って緩く下がりながら続いていることもわかります。
園内はフェニックスが何本か植えられているだけで、とくに立ち入って利用するような形になっていないため、高低差があるところにも柵などは設けられていません。
ここが王子街園と王子町公園とを区切る南北道路。JR灘駅から王子動物園へと向かうメインルートでもあります。
この道は、付近の人口が急増する大正時代に耕地整理事業で開かれたものだと思います。
道沿いでどうしても目立ってしまうのは、可愛らしいパンダの看板が掲げられた「パンダショップ・ピーコック」と、その隣にある「王子鉄砲火薬店」の一体化。王子動物園でパンダを見た帰り道に誰もが直面する”?”な看板です。
さて、南北道路から西を向くと、歩道沿いの細長いところに王子町公園があります。王子街園の続きのような形ですが、こちらは1980年(昭和55年)に開かれた731平米の街区公園です。
ベンチやパーゴラなどもあって、王子街園とは違って中に入って憩う場所になっています。
とは言え、敷地の幅については王子街園と変わりません。
西端まで行くと、大きなパーゴラ屋根が架かった休憩場所がありますが、ここにはとくにベンチなどがあるわけではありません。もう少し座り場所を増やしても良いのに、と思います。
この休憩所の屋根の上には、「小さなモニュメント・原田の森」と名付けられた新宮晋の作品が飾られています。
彫刻家の新宮晋(しんぐう・すすむ;1937~)は、風に吹かれて動く金属彫刻で有名で、各地の公共空間に作品が展示されています。神戸近在の方であれば、長年に渡ってJR神戸駅前にあった大きな「しゃもじ」のようなモニュメントの作者と聞けば思い出す方もいらっしゃるでしょうか。
自分から「小さな」と言うほども小さいわけでもなく、高さは2.5mほどあるのですが、なにぶん普段は見上げない屋根の上だし、周りの樹木も繁っているしで、園内や隣接する歩道を歩いていてもなかなか気づかない状況です。
たぶん寄贈された40年前には周りの樹木が小さくて、もう少し目立っていたのだろうと思うのですが。
そして新宮晋作品のすぐ裏側が王子神社となっていますが、公園との間には植栽があって直接通じてはいません。
冒頭で述べたように、神社入口の石柱には、片面に王子神社、もう片面に元・原田神社とダブルネームが刻まれています。
その隣の注連柱には原田衛生組合と原田西部衛生組合の名前が刻まれています。「衛生組合」は、今になって聞くと飲食業か屎尿処理業の団体のように聞こえますが、じつは明治期に都市部で組織化が促された住民自治組織で、後に隣保や町内会、自治会などのルーツの一つとなったものです。
とくに神戸や横浜のように、明治以降に急速に発展した都市では住宅事情が悪く、伝染病対策も十分でなかったためにコレラやペストなどが頻発します。このため衛生改善こそが都市の死活問題となったため、法令が定められて「衛生組合」の組織化が促されました。
屎尿処理や塵芥清掃などは、旧来の村落であれば互いに人手を出して行なっていたわけですが、都市部の町丁などを単位に組織された衛生組合では、住民から必要な費用を徴収して人員を雇い、業として依頼していたという点で、都市的でありかつ自治的な仕組みを持っていたように思います。
尾崎耕司(2005)『衛生組合に関する考察 : 神戸市の場合を事例として(大手前大学人文科学部論集巻6)』によれば、「神戸は、貿易都市として、コレラやペストなど伝染病の脅威に直面した場所であると共に、明治になって栄えた新開の土地であり、兵庫津やいくつかの旧村のあった場所を除いては、近世以来の住民組織の伝統をもたなかったところである。そのようなところで、衛生組合が作られ、しかもそれは本稿で詳論するように公衆衛生のみにとどまらず包括的な行政補完をおこない、昭和期に入って、町会(町内会)設立の母体となっていく」とのことです。
明治以降の「公共」に対する制度と市民意識との関わりや、公衆衛生のために導入されたという点が公園に通じるところがあるので、衛生組合のことも少し書き留めてみました。
(2021年10月訪問)
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