2890/1000 南上原糸蒲公園(沖縄県中城村)

2021/11/20

沖縄県 身近な公園 戦没者慰霊碑 中城村

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中城村南上原(みなみうえばる)地区では、1980年代に琉球大学が移転してきたことに伴って区画整理事業などがおこなわれ、まだ新しい住宅やショッピングセンターなどが建ち並ぶなかに公園や緑道が計画的に配置されています

その中でももっとも高台にある中心的な公園が、南上原糸蒲(みなみうえばる・いとかま)公園です。

丘の頂上に見える配水タンクの周りが約2.0ヘクタールの公園になっているのですが、斜面地部分を含めて敷地内に樹木が少ないため、タンクがやけに目立ちます。

造成前から急斜面が多い地形だったからだとは思うのですが、そこにつづら折りの園路を入れてタンクのところまで登っていけるようにしているため、細かく切り残された急斜面がたくさんできています。こうした場合、ツツジなどの灌木類やササ類を密に植えたり、細かく段切する土留工を作ったりして斜面が崩れないようにすることが多いのですが、ここは緑色の防草シートを広い面積で採用しています。
公園ではあまり使わないアイテムなので不自然に感じましたが、整備当初の写真を見ると芝貼りで道沿いに樹木も植えられていたようなので、一度くらい大雨でゴソッと土砂が流れてしまって止む無く防草シートに切り替えたのかも知れません。

さて、水道タンクとか防草シートとか、変な目付け所の話題から入りましたが、公園施設の話題に移ります。
まず住宅地側からの入口付近には、チューブやスパイラルなど各種滑り台を備えた複合遊具などがある遊具広場があります。

それと並んでロープピラミッドやブランコ、シーソーなどがあるほか、屋根付きの休憩所やトイレもこのあたりに置かれており、小さな子供連れはここだけでも十分に遊べるほどです。

丘の上から滑ってくるローラー滑り台は、長さ40メートルくらい。間違いなく楽しいのですが、滑る前に上まで登るのが大変です。

とは言え、せっかく来たので登ってみます。長さもあるし、地面からの高さもあるので、小さな子供は少し怖いくらいかも知れません。

この付近での沖縄本島の幅は約7km。
横断線の中で、この公園付近の標高約150メートルが一番高いので、滑り台のデッキの上から眺めると西の遠くの方に東シナ海、東の間近に太平洋(中城湾)と、本島の両側の海を望むことができます。下写真は東シナ海。

こちらは中城湾。
太平洋戦争の末期、戦艦大和が沖縄に向けて突入した際には「中城湾に固定してそのまま砲台化し、42kmの飛距離を持つ主砲で、本島中南部の陸域・海域のすべてを射程圏内にする」作戦だったと聞いたことがありますが、まぁ仮にそうだとしてもこの公園がある場所を含めて本島を縦断する高地に遮られて西海岸なんか全く見えないわけですから、何に向かって撃てば良いのかがわからないですよね。

実際は戦艦大和は来ないし、米軍は押し寄せてくるしで、この付近の高地も激戦地の一つとなり、今は戦没者800 柱を祀った慰霊塔「糸蒲の塔」が建てられています。

■現地の解説板より「155高地(米軍名称:TombHill)の日本軍陣地跡」
現在、南上原糸蒲公園となっているこの小高い丘は、地元では糸蒲山(いとかまやま)と呼ばれており、かつて古い時期の津覇の集落があったという伝承や、糸蒲寺や田芋の発祥地などの言い伝えが残されている場所です。
1945年の沖縄戦のさいには、沖縄本島を横断するように形成された日本軍主陣地帯(嘉数高地-西原高地-棚原-南上原[155高地]-和宇慶稜線[オウキヒル及びスカイラインリッジ])の一部として、糸蒲山にも日本軍の陣地が築かれ「155高地」と称されていましたが、当時の日本軍の陣地配置や構造などに関して、現在のところ詳しい事は分かっていません。
1945年4月8日、米軍が進行してきた時に155高地を守備していたのは、独立歩兵第14大隊第5中隊と第12大隊第4中隊でした。同地を巡って日米両軍によって激戦がくり広げられ、同日夜、日本軍は独立歩兵第12大隊5中隊を増援として派遣します。9日は米軍による攻撃がいよいよ激しさを増し、朝から米軍の艦船や地上部隊による集中砲火、戦車を伴う有力な米軍の攻撃を受け、日本軍の損害も著しかったことから、日本軍部隊はその日の夜のうちに西原に撤退し、この地での戦闘は終わりを迎えました。
参考文献:『戦史叢書沖縄方面陸軍作戦』(1968年) 中城村教育委員会

さて、解説板の記述は戦地としての糸蒲山のことが中心なのですが、最初の方にサラッと書かれた「田芋の発祥地」という言い伝えが気になったので調べてみました。

田芋(タイモ、ターンム)は沖縄でよく食べられるサトイモの仲間ですが、それが「発祥」したとはどういうことか?

写真:宜野湾市HPより

すると、琉球大学附属図書館のHPに掲載されているコラム『きじむんのどぅーちゅいむにー』2014年10月号に、次のように書かれていました。

糸蒲寺の周辺は、琉球の田芋発祥地です。糸蒲寺の補陀落僧が、日本から持ってきた田芋を寺の近くに植えました。
そこから沖縄中へ広まったという伝説があります。

ふむふむなるほど。沖縄で最初に栽培された地ということなのですね。伝説の出どころはわかりませんが、中身はよくわかります。
サトイモの仲間全体が東南アジア原産で、日本本土にも外来で持ち込まれたものと考えられているので、順番から言えば沖縄に先に入っていそうなものですが、伝説では本土から持ち込まれたことになっているのは、中世以前の日琉貿易の中で実際に色々なものが日本から持ち込まれていたことが背景にあるのかな、と思います。

ですが、このコラムを読むと、また一つ気になることができました。「補陀落僧が日本から持ってきた田芋」が栽培されたという部分です。

南方にあるという補陀落浄土を目指して小舟で単身出発して往生する補陀落渡海は、那智勝浦や四国足摺岬などが出発地として知られる信仰の形ですが、沖縄には「補陀落僧が漂着して仏教を伝えた」「有名な寺を開いた」という話が伝わっており、No.2376 うちょうもう公園で登場した日秀上人もその一人です。

乗り込む小舟には30日分だけ食糧が積まれたそうなのですが、ほかに余分なものはなく、釘で蓋をされた部屋の中でひたすらお経を唱えながら流されていくのです。

写真:日経新聞サイトより

ということは、補陀落僧が日本から持ち込んだ田芋は30日分の食糧に含まれるもの。
でも日本から持ってきた田芋が栽培できたということは、生の田芋を持ってきたということ。

サトイモは生では食べないと思うんだけど...偉いお坊さんだから法力でなんとかなるのかな...

防草シートとか戦艦大和とか、補陀落渡海とかタイモとか、なにかと考えることが多い南上原糸蒲公園でした。

(2021年7月訪問)

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