JR相生駅北東側の緩斜面地では、1960年代から駅北地区の区画整理事業が進められました。1972年(昭和47年)の山陽新幹線開業を睨んでのことだったと思われますが、当時の相生の中心市街地からはやや離れた山の手にあたるためか、駅近立地にも関わらず広い範囲が住宅系の土地利用となっています。
そんな駅前住宅地の西端、鮎帰川沿いにあるのが駅北第一公園です。
川沿いの道を上っていくと、いかにも区画整理地の端の方にありそうな三角地の公園が見えてきます。
三角地の中でもとくに使いにくい鋭角部分に、光明山城跡の石碑が建てられていました。ここから北へ4.5kmと書かれていますので、川沿いの道が登山道に通じているのでしょうか。
解説石碑にある元正天皇(在位715-724)は天武・持統の孫で奈良時代はじめの天皇なので、本当にその時代に築かれたと言うなら、そうとう古いですね。
■現地の石碑より「光明山城跡」
城跡は標高260.9mの光明山の山稜にあって、南北350m、東西400mにわたり、曲輪跡や堀切、竪堀、空堀などの防御施設がみられます。
光明山城は別名を紫雲城、逆茂木城、小犬丸城とも呼ばれ、元正天皇の御代(715~724)に乙春朝臣が創築し、建武年間(1334~1336)に赤松円心(則村)が再築して下臣守らせた。その後、天正年間(1573~1593)の羽柴秀吉の播磨攻略により落城したと伝えられる。
元正天皇の頃に築城した乙春朝臣という人物についてはまったく知らないので調べてみると、是澤恭三(1956)『粟鹿大明神元記の研究(二)』(日本学士院紀要第15巻第1号)の中に、兵庫県朝来市にある粟鹿神社に伝わる『日下部足尼家譜大綱』という系図の中に、日下部氏の始祖とされる日下部兵米の子として乙春朝臣が登場し、「其人ト為リ驍勇善闘、和銅元戊申新羅西北ニ寇ヲ報セントス、秋八月十三日奉勅新羅征討将軍ト為リ之ヲ防クニ神力ヲ得テ功アリ、依テ正六位ニ叙セラル(下略)」と書かれているとの記述がありました。
奈良時代の初め頃は、日本が新羅・唐と争って大敗した白村江の戦い(663年)から50年がすぎ、朝鮮半島を統一した新羅とは安定した関係が結ばれていた時代なので、新羅に攻め込んで正六位に叙せられたという話はやや無理があるように思います。元正天皇の718年にも小野馬養を正使とする遣新羅使が派遣されていますし。
さて、ずっと離れた光明山の話はそれくらいにして園内に入ります。
三角形の鋭角側に遊具を置き、中央にパーゴラと高木植栽を配置して敷地を区切り、その向こう側は草敷きの広場にするという構造です。
遊具の中では、コンクリート製のプレーウォールと柱とを組み合わせたような物件がよく目立っています。
以前にNo.611 那波西公園でも見かけましたが、色々な高さ・太さのコンクリート円柱がニョキニョキと生えている遊具は、相生市内でいくつか採用されているようです。
単純ですが幼児から小学生までいろいろと使えますので、けっこう面白い遊具だと思います。
ブランコは、比較的新しい2連のもの。そのほかに鉄棒もあります。
あまり見たことがない遊具としては、スプリング式のボードがありました。スプリング遊具は動物や乗り物の形をしていることが多いのですが、これは手すりがついたボディーボードのような形をしています。
子供が真ん中に跨るにしては幅が広いし、チョコンと腰掛けるにしては前後のバランスが悪いし、やはりボディーボード同様に腹ばいで乗るのか、あるいはサーフボードのように両足で横向きに乗るべきなのか。使い方について少し悩みます。
でもここで楽しく遊んでいる子供たちを、パーゴラの茂みから豹が狙っています。
公園の動物遊具にしては、なかなか鋭い目をしています
豹の向こうは小広場。推奨ではありませんが、子供の野球やサッカー遊びくらいなら十分にできる広さがあります。
もっと建て込んだ市街地ではボール遊びを禁止している公園も多いものですが、ここくらい余裕があれば構わないのではないでしょうか。
(2021年9月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿