浜比嘉島(はまひがじま)には「浜」と「比嘉」という2つの大字があります。そのうち、島の西側を占める「浜」にあるのが浜公園(比嘉にある比嘉公園は、次の記事で訪ねます)。
30数年前に、農村総合整備モデル事業で整備された農村公園であることが園名板に記されています。
園名板は立派なのですが、園内への出入りは溝蓋の上を歩くしかないという不思議な構造です。
仕方がないので溝蓋の上を歩いていくと、
2連のブランコがありました。
でも残念ながら、安全上の問題があるのでしょうか、座板がしっかりと縛られて使用禁止状態になっていました。
その奥には、人研ぎのガケ滑り台があります。
傾斜地の狭いところに上手に設置しているのですが、こちらも滑り面が傷んでおり、時の流れを感じさせます。
入口側からは見えなかったところにガケ登りもありました。
ガケ滑り台の上から奥へと通じる園路があったので入っていくと、公園敷地としては一番高いところに小園地があり、ベンチとテーブルが備えられていました。
作った当時は、もっと周りが開けていて浜集落の方を眺めることなどできたのでしょうが、いまは完全に森の中です。
小園地を過ぎてもまだ園路は続き、トイレに通じていました。出入口の溝蓋園路からは想像できないほどに、園内の施設が充実しています。
トイレの前を通り過ぎ、公園入口の方へと歩いていくと、戦没者慰霊碑と石碑が並んでいるところに出くわしました。
こちらは、戦争で亡くなった村出身者のための慰霊碑です。
沖縄では、こうした慰霊碑が建てられる場所は、もともと村にとって大切な拝所などの近くであることが多いと思います。
一方、こちらは現地では謎の石碑。いちおう花生けが立ててありますが、慰霊碑ではないようです。
銘板には「シェリー大佐の浜比嘉住民に対する貢献により記念としてマリン将校婦人会より贈る」という内容が、日英両文で刻まれています。1967年3月から1968年6月というのは建立の年月なのか、でも幅があるのでシェリー大佐の浜比嘉島での活動期間なのか。
全体に省略気味で詳しいことがわからない碑文なのですが、マリン将校婦人会というからには、シェリーさんは在沖している米海兵隊の大佐だったのでしょう。
今でも海兵隊員がボランティアで海岸のゴミ拾いをしたりするので、昔はそういうものがもっと盛大に行なわれていたのでしょうか。
いろいろわからないので在日米海兵隊のTwitterを検索していくと、2016年6月28日にこんな投稿がありました。
シェリー大佐は戦後荒涼とした島の復興に尽力し、電気や水道施設、小中学校や教会、公民館や貯水池のなど(※原文ママ)建設に積極的に働きました。大佐の死後、彼に敬意を表そうと、島民と海兵隊員らが共同で記念碑を設立し、それ以来、島民たちは6月23日に島の戦没者とシェリー大佐の供養を行っています。
浜比嘉島は、戦闘や爆撃が行なわれるいわゆる戦場にはならなかったようですが、米軍に占領はされていたわけで、1967~68年くらいの、まだ沖縄戦の記憶も強く残る時期に、地区の戦没者慰霊碑のすぐ横に米軍将校の記念碑が建つまでには、いったいどんな経緯があったのものかと考えさせられます。
それからまた20年ちょっと過ぎた平成のはじめに、その慰霊碑と記念碑の周りを公園という形で誰もが入れるようにしてくれたお陰で、さらに30年が過ぎた令和のはじめに訪ねることができた浜比嘉島の浜公園でした。
(2021年9月訪問)
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