江戸時代の兵庫津のまちは、港湾そのものである浜方、その後背地で西国街道の宿駅となる岡方とに分かれ、浜方は現在の新川運河付近を挟んで北浜、南浜とに分かれていました。
岡方では以前にNo.860 本町公園を訪ねましたが、今回は南浜にある南浜公園です。
私が訪ねた時は隣地が工事中で少し見づらくなっていますが、一つしかない出入口の脇に「史跡生洲跡」の石碑が建てられています。
■園内の解説板より「兵庫の生洲」
江戸時代、兵庫の名物として元禄14年(1701)の『摂陽群談』は鰯漬けやすだれ干しの小鰯を挙げている。当時、兵庫は活け魚でも知られ、当地の宿泊客や京・大坂の市場に早舟で売り出して好評であった。寛政8年(1796)の『摂津名所図会』は、魚市のほかに南浜の今出在家町にあった「兵庫生洲」を絵入りで紹介し、長さ13問、幅4間(約24m×7m)ほどで屋根を持ち、潮水をたたえた池中には鯛・鱧・鱸ほかさまざまな魚が飼われていると記している。この生洲からは、しけや 不漁の時に活け魚を市場に供給したほか、京の御所からの調達にもここから魚を献上したといい、また旅の名所でもあると記している。当地が、江戸時代に瀬戸内海航路東端の港として賑った兵庫の津の、貴重な生洲の址である。
近在では、明治6年に和田神社旧境内の周囲に5反余り(約4500平米)の和田遊園が開かれ、和田岬には和楽園という名所も設けられた。和楽園には明治28年にわが国で最も早く水族館が開設され奇魚異貝を収集した。兵庫生洲の後身といえなくもない。 撰 田辺眞人
その横には、摂津名所図会にある生洲の絵が掲示されているのですが、なぜか真上を向けて置かれています。
はじめは「工事の関係で、一時的に変な向きに仮置きしているのかな」と思ったのですが、工事は公園前の道路で行なわれていたもので、どうもずっと空に向かって説明し続けているようです。
生簀を覗き込むような角度をイメージしているのかも知れませんが、決して見やすいものではありません。
少し進むと、もう一つのモニュメントがあります。1930年(昭和5年)戦前の神戸港で行なわれた観艦式を記念して町内会が建てたという国旗掲揚台を移築保存したものです。
帝国海軍の軍艦が会場パレードを行なう観艦式は、明治以来、神戸沖で何度か開催されていますが、1930年のものは参加艦艇数も多く非常に盛大なものだったそうです。
■園内の解説板より
昭和五年拾月 於神戸港大日本帝國海軍大観艦式挙行記念に当町青年会が今出在家町二丁目市電筋西南地(市有地)に建設した國旗掲揚塔で、昭和弐拾九年参月戰災復興土地区画整理法に基き町協議会敦地に一応移築した。
昭和四拾年七月 都市計画事業に基き撤去す
昭和四拾壱年六月 南浜魚市場跡に小公園設置の決定をみ建國記念日の國会通過を記念、協賛者の協力を得て茲に先輩の遺德を忍び再建す
昭和四拾壱十月吉祥日 今出在家町協議会 会長(個人名)
入口からここまでが、大きくは他所者向けの施設で、ここから奥はご近所の方々向けの施設になります。
遊具は滑り台、4連ブランコ、雲梯、鉄棒など児童公園らしい遊具が一通り揃っています。
でも、いちばん目立っているのは、ジャングルジムと登り棒とを組み合わせた、見張り台のような遊具です。
見張り台があるなら、とりあえず登ってみましょう。
戦前とは港の形も変わっていますが、神戸港の兵庫突堤あたりの港内が望めます。
隣に建つ町自治会館ともあわせて、地区の歴史を紡ぐ役割も果たしている南浜公園でした。
(2021年3月訪問)
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