「社交街」は沖縄独特の言葉で、もともとは戦後に米兵相手に商売をする夜の店が集まった歓楽街のことを指します。
基地がある街ならたいてい、ということは沖縄の至るところに大小の社交街があったのですが、今となっては地元の人が集まるスナック街のような雰囲気が強くなっているところも少なくありません。
そういう成り立ちがあるので、社交街には「日米友好」などの標語や日・米の国旗が掲げられていることが多いのですが、ここ、金武町のうしなー社交街の入口にもアメリカのシンボル・鷲のマークが掲げられています。牛なのに。
この国道に面した社交街入口から50メートルほど進んだところに、小さなポケットパークがあります。
社交街から役場に向かう角のところに、10メートル四方くらいのポケットパーク。
中央にイペの樹を囲むサークルベンチ、それ以外にもベンチが4基あって、小さいながらも座って憩うことを重視した施設内容となっています。
木製のベンチが傷み気味なのは、北向きで建物の陰になりやすい位置なので仕方がないでしょう。
サークルベンチの中央に植えられているイペは、南米原産で黄色い花が特徴の高木です。花の時期には樹を覆ってしまうほどたくさんの花が咲き乱れるのですが、ちょっと時期が悪かったようで、ほぼ散り終わっていました。
このポケットパークに「うしなー(牛納)」という地名の由来が書かれた案内板が建てられています。
■現地の解説板より「牛納(ウシナー)の由来」
「ウシナー」は現在の牛納社交街の一帯を指す地名です。
うしなーとは沖縄方言で「闘牛場」を意味し、同様の地名は各地に存在します。かつて、この一帯は低く窪んだ地形で、周囲には松の木がうっそうと生えていました。
明治の末頃から闘牛場として利用されるようになったウシナーは、大正4年に記念道路が整備されて以来、角力大会や原山勝負(ハルヤマスーブ)など、当時の金武村の大きな催し物の会場として利用されるようになりました。
戦後は、巡業芝居の会場などにも利用され、人々が集まる憩いの場として親しまれました。その後、昭和36年に地形が平らに整備され、現在のような社交街になりました。
全体的にはよくわかる解説板ですが、「原山勝負(ハルヤマスーブ)」がわかりません。
わからないので県立図書館で調べてみると、金武町の隣村の中城村の資料ですが、中城村教育委員会『中城村戦前の集落 シリーズ11 久場』に次のように書かれていました。
「原山勝負」は農事奨励のため、各ムラを単位に、農事に関することについて審査し、優劣を競う行事である。その起源は、琉球王国時代の1814年頃といわれている。その後、廃藩置県後の明治32(1899)年3月30日、各間切で慣例として行われていた原山勝負を県令として条文化し、公布した。
○審査項目と審査方法
審査項目は農事全般にわたり、田畑の耕作方法、作物の生育状況、雑草の有無、農道の掃除、肥料製造法、屋敷内の掃除、家畜の生育状況、山林の管理状況、有害動物及び病害虫の駆除や予防などであった。これらの項目を総合的に審査し、優劣を決めた。審査員については、各集落から出した。
...というものなので、今でいう農事奨励会のような行事だったと思います。
審査自体は各ムラに審査員が出向いて行なうのでしょうが、審査結果を発表する「差分式」というものがあり、中城村の場合は、これの当日にムラ対抗の運動会なども開催してお祭りになっていたようなので、うしなーでも同じような雰囲気だったのでしょう。
今の社交街からは想像もできない光景です。
不思議な名前の街の小さな公園で色々学んだ、うしなー社交街のポケットパークでした。
(2021年3月訪問)
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