阪堺・神ノ木停留所から南に50メートルほど離れたところに大阪市営の住吉住宅があり、その中央に神ノ木公園があります。
かつて住吉大社一帯が海岸だった頃に大きなマツの神木があったことが地名の由来だと聞きますが、今はすっかり住宅地になっています。
園内は西半分が遊具コーナー、東半分が土敷きの広場になっています。
遊具コーナーには大・小の滑り台、2連ブランコも座板タイプとバケットタイプの2種類、砂場などがあります。訪ねた時はたくさんの子供たちが遊んでいたので、引いた位置からの写真のみで。
広場の奥の方に見えているレンガ壁の建物は、市立の「もと住吉青少年会館」という施設で、体育館、図書室、会議室などが入っています。
この体育館の外壁に巨大なレリーフが飾られているのですが、非常に力の入った迫力ある作品です。
住田一郎『部落解放運動における隣保事業の役割:住吉地区・住田俊雄を中心に』(関西大学人権問題研究室紀要,2012)によれば、この作品は ”沖縄の彫刻家金城実氏の指導で、多くの住民が粘土をこねながら「顔」を作り上げた参加型文化運動の先駆的成果であった。” とのことなので、作者名なき大作ということになりましょうか。
公園の中に入らないと見えない場所にあり、またそういった経過を教えてくれる解説板などが何も無いことががもったいないように思いました(もしかすると、もと青少年会館の中にあるのかも知れませんが)。
ところで神ノ木公園、市営住宅、もと青少年会館などを含む敷地は、昭和の中頃までは酒造工場があった場所でした。
大正時代にここで働いていたのが、国産ウイスキーを初めて作り出し、NHK朝ドラ『マッサン』のモデルにもなった竹鶴政孝です。
■現地のパネル解説板より「摂津酒造跡(住吉区帝塚山東5丁目)」
【大阪市顕彰史跡第212号】明治42年(1909)年、二代目阿部喜兵衛は摂津酒造合資会社を設立し、大正期には国内三大アルコール製造業者となった。二代目喜兵衛は竹鶴政孝をスコットランドへウイスキー留学させたことでも知られる。大阪市教育委員会
ここに同じことを述べている解説板を2枚並べて建ててある理由が理解できないのですが、とにかく大阪市としては摂津酒造を激しく顕彰したいことは伝わってきます。
でも『マッサン』が放送されたのが2014年、このパネルが設置されたのが2015年のことなので、どうしても「便乗商法」という言葉が思い浮かびます。
■現地のパネル解説板より「摂津酒造跡(住吉区帝塚山東5丁目)」
【大阪市顕彰史跡第212号】今日、ジャパニーズ・ウイスキーはスコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダとともに世界の五大ウイスキーとされるが、その濫觴はこの地にあった摂津酒造の社長・二代目阿部喜兵衛が、ウイスキー製造を学ばせるため社員の竹鶴政孝(1894~1979)をスコットランドへ留学させたことにある。
竹鶴は広島県竹原の出身で、大正2(1913)年に大阪高等工業学校醸造科に入学、大正5年に摂津酒造に入社、そして大正7年にスコットランドに派遣された。大正9年に帰国してウイスキー製造を計画したが、摂津酒造の重役会では、第一次大戦後の不況もあって賛同が得られなかった。大正12年に寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎に山崎蒸溜所の初代工場長として迎え入れられ、昭和4(1929)年に国産初のウイスキーを世に送り出すことになる。
その後、摂津酒造は昭和39(1964)年に宝酒造に合併されて同社の大阪工場となったが、昭和48(1973)年に工場は廃止された。現在、神ノ木公園東側には摂津酒造の井戸の跡が埋立てられ、石貼りのマウンド状に残っている。
さらに園内の別の場所には、また同じことが少しだけ文章表現を変えて書かれた石碑まで建立されています。
そもそも解説文にあるとおり、竹鶴がウイスキー製造を学んだのはスコットランドであり、帰国後に実際に製造したのは京都・山崎の地なので、結局この場所ではウイスキーに関わることはさほど行なってはいないということですよね。留学前に文献調査くらいはしたかも知れませんが。
「摂津酒造跡」を顕彰するのなら竹鶴の略歴は抑え気味にして、摂津酒造そのものが日本の酒造業やウイスキー製造に果たした役割についてもう少ししっかりと解説して欲しいものです。
■現地の石碑より「摂津酒造跡(住吉区帝塚山東5丁目)」
【大阪市頭影史跡第212号】いまや世界5大ウイスキーのひとつに数えられる「ジャパニーズウイスキー」。その誕生の歴史に深く関わった人物こそが、この地にあった「摂津酒造」の二代目・阿部喜兵衛である。明治39年、喜兵衛は摂津酒精醸造所を創立し、大正期には国内三大アルコール製造業者となった。ウイスキー製造技術を導入するため、社員である竹鶴政孝をスコットランドに留学させ、日本でウイスキー製造を計画するも、第一次世界大戦後の不況により頓挫。失意のなか同社を退社した竹鶴は、大正12年、寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎に山崎蒸溜所の初代工場長として迎え入れられ、昭和4年に国産初のウイスキーを世に送り出すことになる。その後、昭和39年、摂津酒造は宝酒造に合併され、同社の大阪工場となったが、昭和48年に廃止。現在、神ノ木公園の東側には、摂津酒造の井戸の跡が残されている。竹鶴にとってこの地は、ウイスキー製造の基礎を学ぶきっかけとなった場所と言えるだろう。大阪市教育委員会
便乗商法の解説板をいっぱい建てるくらいなら、レリーフの解説をしっかりとすべきだと思った神ノ木公園でした。
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