沖縄県の北谷町は、沖縄戦時に米軍の本島上陸地点となり、村全域が占領地となりました。終戦後から少しずつ返還がなされてはいるのですが、平地の田畑だった土地は嘉手納飛行場を始めとする米軍基地に占領されたままで、収容所から戻った住民たちは起伏の激しい谷地・斜面地に無計画に集落を形成せざるを得なくなりました。
それから30年近くが経過し、1972年(昭和47年)の日本復帰前後から海岸の埋め立てや丘陵地の造成開発による宅地整備が進められるようになり、ここ上勢頭でも1970年(昭和45年)に返還された用地30.5ヘクタールで上勢頭土地区画整理事業が実施されました。その事業の中で1981年(昭和56年)につくられたのが上勢頭北公園。
見てきたかのように書いていますが、大体のことは園内にある区画整理事業の記念碑に書かれています。
■碑文より
この地域は字上勢頭の南側に位置し、第二次世界大戦前は住宅が点在する起伏の著しい所であったが、敗戦とともに米軍用地として接収されていた。1970年に返還され、本土復帰に伴う記念国民体育祭「若夏国体」(1973年)が開催されることになり、国道58号線から沖縄市へ通ずる県道23号線(国体道路)が開通した。
1971年7月、全地主95名の合意で組合事業として宅地造成を計画、町当局の指導のもとに実施した。
この事業はすべて組合員の固い結束と積極的な協力によって自力で完成させたところに特色がある。
事業終了にあたり地主及び関係各位への感謝の意を表すと共に上勢頭地域の永遠の発展を祈念してこの碑を建立した。1989年(平成元年)12月吉日
現在の公園は、敷地のだいたい半分がグラウンド、もう半分が遊具のある園地という構造なのですが、どちらもちょっとだけグレードが高い整備内容となっています。
グラウンドは土ではなく、草芝敷き。雨上がりに訪れたので芝は少しベチャッとして見えますが、バックネットやベンチなどもあって子供の野球やソフトボールなどに使えそうです。
遊具コーナーも、基本的には草芝敷きになっていて、小さな子供でも安心して遊べるようになっています。
メインになる複合遊具のほかに、
幼児向けの小さな滑り台、壁登り遊具などが設置されています。
本ブログでは「百目」と呼んでいる登攀遊具もありました。
よくわからないのは、乳幼児向けの揺れない動物遊具ですね。
この遊具の周りにラバーマットを敷く前に、壁登り遊具や百目の周りにこそ敷くべきだったのでは。
方言読みなら「ウィーシードゥ」と発音するそうですが、公園名は「かみせどきた」の上勢頭北公園でした。
(2021年2月訪問)
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