大阪の黒門市場の少し先に、黒門公園という小公園があります。
この公園は、18世紀の中頃に銭を鋳造する天王寺村鋳銭所があった場所だということです。
このうち金座と銀座の長官は世襲制で幕府に厳しく管理されていたのですが、寛永通宝などの銭をつくる銭座については、流通量が足りなくなったら資本力のある商人らに許可を与えて鋳造所を作らせて、一定量を作り終えたら許可を取り消して、その地での鋳造は終了するというシステムになっていたようです。
ただし、諸々の事情から18世紀の半ばをすぎると許可は出されなくなり、金座が銭の鋳造も受け持つようになります。
■現地の解説板より「天王寺村鋳銭所跡」
江戸時代、このあたりは天王寺村といい、銅銭をつくる工場(鋳銭所)がありました。寛保元年(1741)に、大坂の銀鋳造工場の幹部(銀座年寄)であった商人の徳倉長右衛門と平野六郎兵衛が、幕府の許可を受けてつくったものです。その頃の大坂には、今の淀川区の加島と中央区の難波にも銭の工場があったため、こちらの工場は、天王寺村銭座と呼ばれていました。
敷地は約3万6千平方メートルあり、周囲は塀と堀で厳重に囲われていました。多い時には年間20万貫(約2億枚)の寛永通宝をつくったといいます。しかし、工場の支配人の不正などがあったため、営業がうまくいかなくなり、延享2年(1745)には操業をやめました。
その跡地には、宝暦2年(1752)に、幕府によって天王寺御蔵(高津御蔵)という倉庫が建てられました。これは道頓堀から高津堀川を通って米を運び、蓄えておくための大きな貯蔵庫でした。寛政3年(1791)に、天王寺御蔵が難波に移転した後は、民間の土地となり、町屋が立ち並びました。大阪市教育委員会
道路から見て手前側が広場に、奥の狭いところが遊具コーナーになっています。
複合遊具は、小ぶりとはいえ小学校低学年くらいなら遊びそうですが、
ブランコはバケット式のみなので、完全に乳幼児向けですね。
遊び場の奥には黄色くなったイチョウの葉がたくさん落ちていて、幼児であればこれを拾って遊んでも十分楽しめるようにも思いました。
ところで、この遊び場の一角に、園外へと通じる小さな扉がありました。
もうちょっと進むと、路地から黒門市場に面してこうなっていました。
遊具コーナーには、小ぶりな複合遊具と乳幼児向けのブランコ、大人向けの健康器具などがあります。
そのほかにも3歳未満が楽しめるタイプの遊具が揃っており、対象年齢が非常にはっきりしている遊び場です。
出てみると、こんな路地。
よそ者が通るのはためらわれますが、お店が開いているところもあるので、いちおう通っても構わないようです。
(2020年12月訪問)
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