この付近は地形的に上町台地の西端にあたり、ガケの上と下との平坦地には社寺が並び、間に挟まれた崖地が都市内に残された貴重な樹林地となっています。このため風致地区が広く指定され、生玉公園の区域ではそれと都市計画公園の指定が二重にかけられる形ですので、緑地保全のための開発規制としてはかなり厳しいものとなっています。
ただ、都市計画公園の区域は以前はもっと広い範囲に広がっていたものが、実際に民有地を買収して公園として整備・開園するめどがまったく立たなかったことなどから2014年度(平成26年度)に計画区域が変更されて、確実に開園できるところだけを公園区域として残す形に改められました。
確か、崖下の松屋町筋から公園に通じる出入口は、その後に大きく作り直されたように記憶しています。
そんな風にガケに馴染む生玉公園ですが、戦時中には、このガケ地形を利用して、軍用の防空壕が作られていました。今は出入口が塞がれて中に入ることはできませんが、コンクリートの外観が一部剥き出しになっており、近くに解説板が建てられています。
■現地の解説板より「生玉公園地下壕」
先の戦争において我が国はアジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことをわすれてはなりません。また、大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園、地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設されました。
地下壕については、その建設経過や使用状況などの詳細は明らかになっていませんが、戦争末期には陸軍が使用していました。戦後、米国戦略爆撃調査団により刊行された報告書では、当時、一般では入手できなかった資材を使用して建設された「特別防空壕」の例として報告されています。
また、この地下壕建設にあたっては、当時の植民地支配の下で「強制連行などにより集められた朝鮮人が苛酷な労働に従事させられた」との体験者の証言があります。
戦後の50年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。1996年(平成8年)3月 大阪府/大阪市
●地下壕の構造
内部の構造はアーチ状で鉄筋コンクリート造り、2階建て(ただし2階部分は現存せず)で、本体は幅約9m、高さ約6.5m、長さ約24m、1階部分の床面積203平方メートルとなっています。
この解説文を読んでいてわからなかったのが「都市防空壕」という言葉です。防空壕は空襲を避けるためのものだから大抵は都市につくられると思うのですが、あえて都市を頭に付けてカギカッコで囲んでいるところから考えれば「都市防空壕」という熟語が当時の行政、軍、あるいは後の研究などの分野にあるのかと考えるわけですが、この解説板以外では見たことがない言葉です。
ネット検索したくらいではわからなかったので、いつか詳しい人に教えていただきたいことが、また一つ増えました。
あと、地表に見えているコンクリート構造物のうち、どこが防空壕の構造物で、どこがガケの土留めなのかも、じつはよくわかりません。
樹木の生え方をみるとそれなりに土の深さがあるようなので、垂直に立っている部分は、ただの土留工のようにも見えるのですが。
崖上にいくと地下の換気塔のような構造物もあるのですが、こちらにはとくに解説板もなく、本当にそうなのかはよくわかりません。
なにかとわからないことだらけの防空壕ですが、これが軍機密ってやつなのでしょうか。
そこから時代をさかのぼって明治時代。
まったく違う目的で崖地を使ったものが、この場所にあったそうです。
それがこちらの「浪速富士」。写真は現地の解説板のものを掲載させて頂いております。
ガケの上に木造板張りの展望台を建てて展望台とし、内部も遊興施設としたレジャー施設だそうですので、現代の通天閣など各地のタワー施設に通じるものがあります。
「富士を模した」というボディにまた富士山がいくつも描かれており、100年以上前のものとは言えかなり珍妙なデザインです。
現地の解説板より |
■浪花富士山跡(天王寺区生玉町)大阪市顕彰史跡 第205号
かつて生国魂神社周辺には桜を植えた境内を開放した寺院や田楽店・だんご店などがあり、一帯は庶民の行楽地であった。そこに目をつけた大蔵信之(当時、西高津村の戸長を勤めていた)によって、明治22(1889)年「浪速富士」と呼ばれる展望台が神社の南横手に造られた。 富士山を模して円錐形に木材を組み、それに板を貼って漆喰で塗り固めて仕上げ、雪を頂く富士の姿を描いていた。また麓から高さ18m ある頂上にむかって螺旋状に階段が造られ、登頂気分が味わえるようになっていた。
さらに、場内には花壇や人工の滝、加えてあたかも生きた人間のように作られた「生人形」の展示があって庶民の人気を博し、開業当時は2万余人に上ったという、しかし、維持費が予想以上にかかったことなどの理由で1年足らずで閉鎖された。
場内に展示されていたという生人形(いきにんぎょう)は、江戸時代の見世物として発達した張子細工の等身大人形のことですが、その昔(といっても2013年まで)、東京タワーにも蝋人形館がありましたので、タワーの見世物として生人形が展示されるのは、どうやら我が国の伝統のようです。
さて、やっと公園の本題に入ります。
先ほどの換気塔があった崖上は、防球ネットに囲まれたグラウンドになっています。
40メートル四方くらいの大きさなので少年野球にも少し狭いようには思いますが、ホームベースが埋め込まれているので、野球での使用頻度がかなり高いようです。
そこから一般道を挟んだ向かい側が広場と遊具コーナーになっており、一般的な公園利用の中心になります。
遊具広場はそこそこ広いのですが、遊具は滑り台、2連ブランコ、揺れる動物遊具、鉄棒など標準的なものばかりになっています。
普通に公園を見に行ったのですが、思いがけず色んなものにであった生玉公園でした。
(2020年12月訪問)
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