2006年(平成18年)に平成の大合併で八重瀬町の一部になった自治体は旧・具志頭村(ぐしかみそん)ですが、その中心部にあたる字具志頭は方言読みで「ぐしちゃん」と読みます。
そんな字具志頭にある具志頭園地は「かみ」なのか「ちゃん」なのか迷ったのですが、行ってみたら案内標識に「かみ」だと書かれていました。
「園地」は環境省所管の自然公園で使われる用語で、自然保全と利用のバランスを取るべき自然公園の中で、利用の拠点として設けられる施設の名称として使われています。ですので、ここも辺り一帯が指定されている沖縄戦跡国定公園の施設だと思われます。
さて、今回訪ねたのは、上の標識で右側、海沿いの切り立った段丘上にある「城址地区」の方です。ここは14世紀中頃の築城と伝えられる具志頭城の跡地ですが、沖縄戦の激戦地として慰霊の場でもあり、さらに海辺の景勝地でもあり、それらがあまり切り離されず混在した公園となっていることが特徴です。
集落側から入っていくと、まず右手にある大きな展望台が目に付きます。
展望台の横には、合併前の旧村時代のままの解説板が設置されていました。
■現地の解説板より「具志頭城」
具志頭城は、14世紀の中期頃に第2代大成王の第3子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按治の居城であった。その規模はおよそ25,700平方メートルもあり、沖縄の古城跡の中でも大きい方で、自然の断崖上に構えられた山城形式にして、連郭式の城である。
この具志頭城の北方すぐ近くには、この城の出城としてのミドリ城がある。ミドリ城は玉城城などの城主からの攻撃に対しての見張所であったと伝えられている。南側には高ヤックヮと呼ばれる見張ヤグラの石垣遺構がある。高ヤックヮは、南山城や多々名城などに対する備えとしての見張台であったと言われている。
代々の具志頭按治は、盛んに海外貿易を行なった。その貿易港は、城下を流れている白水川の下流に広がる内海であったと伝えられている。具志頭村教育委員会
城址地区を名乗ってはいますが、公園整備の際に大きな地形改変が行なわれたこともあり、素人目にはなかなか城の雰囲気は感じられません。「そこで!」ということなのでしょうか、展望台の足元が石垣っぽく作られています。
まぁ、だからと言って、これを見て「あぁ、グスクに来たなぁ」という感想が出るわけもないのですが。
展望台に上がると、とくに仕掛けのない10メートル四方くらいの空間が広がっており、テラスからあちこちと眺めることができます。
しかし屋根が大きい割には照明がないため昼でも薄暗く、座るところもないので長居もできず、あまり気持ちのよい展望台ではありません。
テラスから海の方を眺めると、こんな感じになっています。
冬の小雨交じりの日に訪ねたのでまったく冴えない風景ですが、夏場の青い空、青い海の季節なら、まったく違った風に見えることでしょう。
ここらへんから戦跡、慰霊の場としての話題になりますが、上の写真で中央に見えているのが、高知県出身の戦没者を慰霊する「土佐の塔」です。
展望台から出てそちらへ向かうと、このように慰霊碑らしい荘厳な景がつくられています。
沖縄戦では、国内各地から投入された部隊が壊滅したため、都道府県単位で建立された慰霊碑が多くあります。
しかし近年では、戦没者を慰霊する側も世代交代が進んで、それら慰霊碑の建立経緯などがわかりにくくなっているため、沖縄県や(公財)沖縄県平和祈念財団の手によって、慰霊碑のデータベースづくりが進められています。
おかげで、土佐の塔の建立経緯もよくわかりました。そのまま引用すると、次のようになっています。
【1】所在地:沖縄県八重瀬町字具志頭【2】建立年月日:昭和41年11月22日【3】敷地面積:3,312 平方メートル【4】合祀者数:18,545柱(沖縄戦戦没者 832柱、南方諸地域戦没者 17,713柱)【5】管理団体:高知県【6】慰霊塔・碑のデザインの由来等:高知県出身戦没者ゆかりの地である具志頭の丘の村有地に、昭和31年「高知県戦没者慰霊塔」が有志の手により設立されていたが、その維持管理が不十分な面があったため、新しい慰霊塔建立の要望があり、塔の周辺に土地を確保整備し、土佐之塔を建立した。【7】塔のデザイン:塔石には高知県産の青石(長さ2,2メートル、高さ1,4メートル、重量5トンの自然石)を使用している。
ふむふむ、復帰前の時代に、高知県が土地を買って慰霊碑を建てたのですね。だから現地に「高知県所有地」の立札があったのか。
土佐の塔から離れて、園内を東に進むと、同じように山梨県出身の戦没者のための「甲斐の塔」も建てられています。
これも同じように引用すると、次のようになります。
【1】所在地:沖縄県八重瀬町字具志頭【2】建立年月日:昭和41年11月8日【3】敷地面積:761 平方メートル【4】合祀者数:22,051柱(沖縄戦戦没者 550柱、南方諸地域戦没者 21,501柱)【5】管理団体:山梨県【6】建立の経緯:「甲斐の塔」は、太平洋戦争における本県関係戦没者22,051柱を慰霊するため、昭和41年11月8日に「大東亜戦争戦没者慰霊塔建設委員会」が、沖縄県島尻郡具志頭村具志頭城跡に建立し、県に寄付したものです。以来、甲斐の塔維持管理委員会(県、県議会、市長会、町村長、市議会議長会、町村議会議長会、遺族会の7団体で構成)が維持管理にあたり、毎年11月8日を「甲斐の塔」慰霊巡礼の日と定め、遺族代表と関係者により碑前で慰霊祭を行っています。【7】塔の経緯: 具志頭村は山梨県出身の戦没者が多かったところです。このため、建設会社の現場監督として、米軍関係の仕事のために沖縄に滞在中であった南巨摩郡中富町中山出身の山中幸作氏が、昭和28年6月15日、現在地に私費で当時の天野久知事の筆になる石碑を建立し、沖縄戦で戦死した本県出身者の慰霊祭を行ったことから、当地に建立されたもので、この石碑は現在も「甲斐の塔」の敷地内にあります。那覇から車で約40分、沖縄本島最南端の太平洋を望む具志頭城趾跡の小高い丘の一郭にあり、紺碧に輝く波静かな海原を眼下にした景観は、遥か故郷の山梨に向かって立つ「甲斐の塔」の荘厳さを一段と際立たせています。
そして、他県の慰霊碑だけではなく、旧・具志頭村の皆さんが村関係者のために建てた慰霊碑(魄粋之塔 はくすいのとう)もあります。
1953年に、それまで村内に集落単位などで作られていた慰霊碑・納骨堂を集約して建てられたもので10,000柱以上が納められた納骨堂の役割も持っていましたが、後に国立沖縄戦没者墓苑(摩文仁の丘)ができたことで、お骨の多くはそちらに移されたそうです。
下写真左の慰霊顕彰費は1993年(平成5年)に建てられており、この園地にある慰霊碑の中でも最も新しいもの、右の忠魂碑は逆に1927年(昭和2年)に建てられた最も古いものです。
ただし、忠魂碑はもともと現在の具志頭中学校内にあったものですが、中学校の校舎新築などの事情もあって1962年に移転してきたものだそうです。
このほかに「甲斐の塔」の前身となる山中幸作氏の建てた慰霊碑2基も残っており、さまざまな経緯で、それぞれの方々の思いを込めて建てられた合計7基もの慰霊碑がここ具志頭園地に集まっていることになります。
そして、そんな諸々の思いを包み込みつつ繋いでいるのが、海を望む芝生広場です。
慰霊碑のように存在感の強いものが多数存在すると場がそれに引っ張られてしまいがちですし、また慰霊碑が必要以上に重苦しいものに見えてくるのですが、開放感のある芝生広場がそんな気分を取り払ってくれます。
ここだけ、比較的最近になって再整備された雰囲気があり、きれいな芝生の中にまだ新しい東屋が建っていました。
なお、魄粋之塔や忠魂碑の建立経過については、上杉和央『沖縄県八重瀬町の戦没者慰霊空間』(人文地理 第70巻第 4 号(2018)457–476)を参考とさせていただきました。
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