沖縄には琉球貴族の遊びとして始まった「ンマハラシー」と呼ばれる馬乗り競技があり、次第に庶民にも広がったため、戦前までは各地の集落にそのための馬場があったようです。
ンマハラシーは直線コースを2頭が並走する形で行なわれるため馬場も細長く、戦後は道路に転用された所も多いのですが、ここ八重瀬町友寄(ともよせ)では公園に転用されて直線形状をとどめています。

...が、そんな馬場の歴史とは関係なく異彩を放つのが、巨大な獅子舞の滑り台。

約150メートルある直線的な公園の入口に鎮座するのは「友寄の獅子舞」をモデルにしたというコンクリート造の巨大滑り台。この公園にはほかに遊具もないので、久々の巨大コンクリート遊具一本勝負公園の登場です。

2階建ての建物よりも大きいのですが、登って滑る以外の機能はなく、まさしく滑り台。

本当の獅子ではなく、あくまでも獅子舞がモチーフなので、足元は足袋を履いています。
この前足の間の洞穴が階段になっていて、ここから中へ入ります。

■現地の解説板より「友寄の獅子舞」(部分)
戦前までの獅子は、1838年琉球王朝時代の尚育王の頃、郷土の彫刻家・中山宗敬によって作られた。戦時に、これが消失したので、昭和43年、画家であり彫刻家としても知られる山田真山に製作を依頼したのが、現在の獅子である。
琉球王朝時代、当時、天然痘が大流行したが、その疫病神を祓おうと、神事をつくしたあとに、獅子舞の型をあみ出したと由来記にある。以来、村の守護神として祭られ、無病息災、五穀豊穣を願って毎年旧暦8月十五夜に舞われる。

胴内は、大人でも通れるくらいの広さはあるものの、かなり急な階段になっています。ステップ部分が小さいので、手すりがないと登りにくいほどです。

階段を登りきって、滑り台としてのデッキ部分、獅子の体でいうと後頭部から周りを見渡すと、こうなっています。

そこから、背中のラインに沿ってお尻の方へと滑る形になっています。
滑り部は側壁がすごく高いので、上は開いているものの、トンネル滑り台のような気分でした。

でもそのような滑り方なので、この獅子頭部分は、中身は空間的に使っていない飾りとしての役割だけということですね。
美術工芸的には獅子頭こそが大切だということはわかるのですが、遊具のつくりとしては少しもったいないようにも感じます。

鼻の穴か目玉あたりから周りを覗けるようになっていれば、なお面白かったのですが。

さて、そんな獅子の後頭部から、先ほどとは反対側を見ると、このように直線が伸びています。この線形が馬場の名残なのでしょう。

直線部分については特段の仕掛けはなく、草芝敷きの直線のまわりに園路とマツが並んでいます。馬場の脇に松並木というのは、伝統的な馬場のスタイルです。

でも、よく姿を残していて史跡指定を受けている今帰仁の仲原馬場などと比べると、明らかに狭いしマツも小さいので、これは公園整備に際してつくられた「イメージ再現」なのだろうと受け止めます。

そして一番端まで行くと地盤が一段高くなっており、その奥に拝所がありました。
今は隣接する保育所の駐車スペースになっているようですが、おそらく元々は馬場と一体的に、村のお祭り事に使われた空間ではないかと思われます。

ここでもう一度、獅子のところに戻ります。
駐車場を挟んで道向い、公民館の前も芝生広場があって公園のようになっているので見に行きます。

道に向かって階段状の座席がつくられているのは、獅子舞の観覧用でしょうか。

階段を登ってみると、思った以上に大きな空間が広がっていました。
やや変形ですが、25メートル四方くらいあるので、地区のお祭りや子供の遊びには十分な広さです。

公園本体には獅子しかいなかったのですが、こちらの広場の片隅に一般的な遊具の集まったコーナーがつくられていました。
ちょっとコンパクトに詰め込み過ぎな気もしますが、ブランコ、鉄棒、雲梯、ラダー遊具などが設置されています。

箱型ブランコもかつては遊具だったわけですが、今は動かないように固定されて、ただのベンチと化しています。

しっかりと溶接されていますね。

本来の獅子は村の守り神として大事にされているようですが、それに負けじと存在感を放つ巨大獅子がいる友寄馬場公園でした。

(2020年12月訪問)

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