付近の、というか長崎港湾そのものの古い呼び名である「瓊の浦」の名を冠しているだけあって、園名標柱が非常に立派です。
今は海からは400~500メートルほど離れたところにありますが、川沿いなので、元々は海辺の土地であったろうことが想像しやすくなっています。
公園敷地は間に一般道を挟んで東西2つに分かれており、東側には遊具や地区集会所が配置され、西側は土敷きの広場になっています。
下写真が間を通る道で、一方通行の細い道なのですが車両もそこそこ通ります。
こういう変則的な敷地になっている公園には、それなりの理由があるものですが、東側のブロックの片隅に建てられている「長崎県農民会館跡 農地改革記念碑」の碑文を読むと、東側ブロックには農民会館という建物があったことがわかります。
■農地改革記念碑
日本は太平洋戦争後、自作農を創設する農地改革を断行し、長崎県下10万余戸の小作農家もこの画期的な農業民主化の恩恵によって、宿命の貧農から開放された。
長崎県農地委員会は昭和23年3月31日の記念事業として農地改革功労者を表彰するとともに県下農村文化の向上に資する各種集会、宿泊施設としての農民会館を設立することを決め、農地改革で財産処分された上波佐見町の元修練道場の自彊殿をこの地に移し、「長崎県農民会館」を開設した。それから20年、会館は県下農民の心の拠所として愛され、親しまれる中で十二分にその使命を果たし、これを解体して緑地帯として、この借地を国に返上する。此処に長崎県農民会館の跡ある。依って農地改革記念碑を昭和44年12月吉日、建立する。
と言うことは、おそらく農民会館があったころから西側ブロックは公園になっていて、後になって東側ブロック(農民会館跡地)が付け加わったために、間に一般道が残ってしまったのではないかと考えます。
さて、現在の東側ブロックですが、立派な複合遊具を中心に、ブランコやパーゴラなどが配置されています。
長崎の場合は、中心市街地にもまぁまぁ住宅があるので、遊具もしっかりと使われている雰囲気です。
パーゴラも大きくて立派なものがあるので、昼は親子連れ、夜は酔っ払いで賑わうものと思われます。
西側の広場はこれといって特徴もないのですが、お祭りの時などは使い勝手の良い立地だと思われます。
観光客でも知らずに横を通っていそうな瓊の浦公園でした。
(2019年11月訪問)
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