「西陣」という地名は、応仁の乱の際に西軍の総帥となった山名持豊の屋敷があって、西軍が陣を敷いたことが起こりだそうです。
屋敷の場所は、この公園から150メートルほど離れた隣町の山名町だそうですが、広く見れば西陣ど真ん中とも言える立地の西陣公園。
旧・西陣小学校(統合により廃校)の西に隣接し、大宮通に面する1,600平米ほどの整った敷地形状をしています。
西陣小学校の開校は1872年(明治2年)ととても古いのですが、公園はそれに遅れること80余年、1950年(昭和25年)に開園しています。資料によれば、戦時中の建物疎開の跡地だとか。
大宮通に面した出入口から入ると、左側にお地蔵様、右側に西洋甲冑を着た騎士像が設置されています。
まず、こちらがお地蔵様。不慮の事故を防ぐために檻に囲まれていますが、きれいにお奉りされています。
非常に気の利いた由来書きが添えられていました。
「地中にて永年修行」をされたとは、かなり意志の強いお地蔵様です。
■由来書
本地蔵尊はこの公園の地中にて永年修業され此の度花壇造成の際出土されたものであり南無延命地蔵尊と称し町内有志相寄り此の所に安置し公園で遊ぶ児童達及び附近住民の安全を祈念するものであります。
昭和50年4月 西陣樋ノ口町有志一同
一方、こちらが騎士像。台座がしっかりしているので見上げるような高さですが、人物そのものは150~160センチくらいでしょうか。甲冑を着込んでその大きさですから、中の人はけっこう小柄ですね。
ご近所の方が寄付してくださったもののようですが、台座には「建 昭和54年3月」としか刻まれておらず、思いの丈は控えめです。
甲冑は勇ましいのですが、両腕とも欠損しているという痛ましい姿でお気の毒です。
ご近所の方もそう思うのか、せめてもの陣羽織が着せられていました。西陣織でしょうか。
辛い姿でも立ち続けることで、争い事は悲しい結末を招くという教訓を子供たちに伝えてくれているのかも知れません。
さらにもう一つ、由来不明の石造物もあります。この植え込みの奥の方、あまり目立たないところに宝篋印塔のようなものがあります。
基礎部分が無いのか、地中に埋まっているのかはわかりませんが、背が低くていささか不自然なバランスをしています。
とくに由来書きなどは見当たりませんでしたが、公園になる以前は一般の町家が建ち並んでいた場所なので、意外にお庭の飾り物として使われていたものが残っているのかも知れません。
さて、そんなモニュメント物件に気を引かれてしまった西陣公園ですが、ちゃんと児童公園として必要な遊具なども揃っています。
滑り台は「京都市タイプ」と呼んでも差し支えのないほどに、京都市街地の公園に導入されているコンクリート製のもの。
シーソーも京都市でよく見かける、木製座板の跨がるところだけがちょっと細くなっているタイプ。「京都市の標準設計かなにかで、この2つの遊具の形状は指定があるのでは?」と考えています。
そして2連ブランコとジャングルジム、砂場と、小学生までの遊びには十分な遊具が揃っています。
そしてもう一つ、トイレのデザインもちょっと変わっています。
一見すると屋根が壁から浮き上がっているように見えて、なかなか手のかかった作りですので、これは標準設計ではなく別注品でしょう。
地域の方々の公園への様々な思いが垣間見える西陣公園でした。
(2020年6月訪問)
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