しかし、公園敷地そのものが周囲よりも1.2~1.3メートルくらい高い位置にありますので「塚の周りを公園にした」というよりは、元々はもっと大きな塚だったものが周辺の開発の中で削られていき「残ったところを全部使って公園にしている」という印象です。
だいたいの場合、塚にちなむ伝説はあくまで伝説で、周囲よりも盛り上がった古墳を見た人が文学や歴史にちなんだ逸話を付け足していくものなので、ここも本来は古墳だったのではないかと思います。
しかし、私は素人なので適当なことを書きますが、教育委員会としては調査して証拠を見つけないことには下手なことは言えないので、遺跡というよりは文学にちなむ旧跡としての解説だけが記された解説板が建てられていました。
■現地の解説板より『妙亀塚(みょうきづか)』
(都指定旧跡)台東区橋場一丁目二十八番三号 区立妙亀塚公園
この妙亀塚のある地は、かつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は、「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が、信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだ、という説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。
塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安十一年戊子五月二十二日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は、明らかではない。なお、隅田川の対岸、木母寺(墨田区堤通)境内には、梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)があり、この妙亀塚と相対するものと考えられている。
平成15年3月 台東区教育委員会
こちらが、現状での塚の本体。
柵の中にありますが、石段を登っていけば、頂上の板碑までお参りすることもできます。
塚の横手、裏手にも多少のスペースがありスツールなどが置かれていますが、それほど何かができるという広さでもありません。
さて、ここまでならば完全に「史跡公園」の分類にあたるのですが、じつは妙亀塚公園は2つのブロックに分かれており、斜向いにも敷地があるのです。
下写真は、斜向かいの敷地から塚ブロックを眺めたところ。
そしてこちらが、もう一つの遊び場ブロック。三方を住宅に囲まれた小さな敷地ですが、滑り台、ブランコ、鉄棒など一通りの遊具が設置されています。
明らかに逆光ですが、滑り台と4連ブランコ。
ブランコは、普通座板のものと、乳幼児用のイス式のものとが設置されています。
スプリング式の揺れる動物遊具もありました。漢字にひっぱられるならカメが欲しかったところですが、じっさいはイルカ。
2つの顔を持つ妙亀塚公園でした。
(2019年12月訪問)
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