公園周辺は落ち着いた住宅地になっていますが、明治から大正にかけては東京府の農事試験場があった場所に含まれるようです。
現地の解説板によれば「都市化の波におされて、大正13年に立川に移転」と書かれていますが、ちょうど1923年(大正12年)の関東大震災の翌年なので、被災者に住宅・宅地を供給するために計画的に移転したのかも、とも思います。そういう資料を見たわけではないので想像ですが。
■現地の解説板より「東京府立 農事試験場の跡」
このあたりから、大久保通りにおよぶ約2.7平方キロメートルの一帯は、東京府が明治33年に設立した最初の府立農事試験場がおかれていました。
江戸時代末頃から、豊かな経験と技術をもつ各地の「老農」と呼ばれる人たちの相互交流にたよる農業改良が行われていましたが、この農事試験場では、新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実施指導に生かして普及する方法をとりました。
試験場の活動は、国の指定補助を受けて園芸部がおこなった、野菜や草花の温室による促成栽培試験などもふくめ、多くの面で東京近郊の農業技術改良に少なからぬ影響を与えました。
この新しい農業の象徴ともいえる農事試験場も、都市化の波におされて、大正13年には立川へ移転していきました。
昭和58年3月 中野区教育委員会
資料によれば公園としての開設は1943年(昭和18年)のことですので、農事試験場が移転してから20年が経過した後のことです。
こうした土地利用の変遷がある公園の場合、前身の試験場時代からの樹木が残っていたりするものですが、園内をざっと見渡した限りでは、そこまで大きな樹は無いように見受けられました。
このすごく傾いたサクラが、多少古いかも、くらいですね。
さて現在の城山公園は、前述したようにまったく山ではなく平坦で、中央にパーゴラとケヤキの列植を置いて敷地を二分し、西側が土敷きの広場、東側が遊具コーナーとなっています。
ただし、私が訪ねた時は木製パーゴラは使用停止中。
屋根部分の木材が劣化しているようでしたが、これだけフジが絡まっている状態で、どのような補修ができるのでしょうか。フジを伐ってしまうのは忍びないので、両方うまくいく方法が見つかれば良いのですが。
遊具は、このサイズの公園にしては大ぶりな複合遊具がよく目立っています。
チューブ、スパイラル、縦ウェーブと3種類の滑り台があって、それぞれの滑り台パーツが、ネット遊具などで繋がっているという構造です。
縦に伸びるのではなく横に広がるような構造で、写真ではちょっと全体像を伝えにくいサイズです。
滑り台を同士を結ぶ接合パーツの一例、ネット渡り。
こちらは、ただの板のように見えますが、実はスプリングが仕込んであるため少しグラグラするというパーツ。
複合遊具以外にも、幼児向けの滑り台と砂場、2連ブランコなどがあります。
訪れたのは秋晴れの日で、気持ちよく過ごせた中野区の城山公園でした。
(2019年11月訪問)
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