フェンスと高木に囲まれた多目的グラウンド1面のみの、シンプルな公園です。
上写真とは撮影位置を変えてみても、画に大差はありません。
いちおうグラウンドの端と端、真反対の位置から撮影しているのですが。
フェンスの外に「城山」の由来についての解説板があったのですが、記事中にある土塁も今は確認できず、いささか記事にしづらい谷戸運動公園でした。
■現地の解説板より「城山」
このあたりは、もと城山町とよばれ、谷戸運動公園裏に幅5.4メートルほどの土塁が残っていました。
延宝3年(1675)の村の記録には、「中野村のうちに九百坪ほど土手を築き、から掘を掘ったところがあり、これを昔から城山と申し伝えている。そこは、もともと名主掘江卯右衛門の先祖からの屋敷地で、いまは年貢地になり、代々卯右衛門が所持している。」とみえています。
堀江氏は、天正4年(1576)戦国大名後北条氏領中野五郷を治める小代官をつとめ、次いで豊臣秀吉の指令をうけた中野の土豪でしたから、戦国末期の城山は、小城砦を兼ねた土豪屋敷であったことが考えられます。湧水のある中野川の谷戸(谷あいの地)をおさえ、野方丘陵の東南を占める城山は、平忠常の城砦あと、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌とりで」あとなどともいわれています。
昭和57年2月 中野区教育委員会
(2019年11月訪問)
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