台村公園は、No.2242 尾崎公園の登り口からは100メートルほどしか離れていない小公園で、尾崎公園よりはずっと低いものの、周囲の道路よりは10メートルほど高いところにある丘の上の公園です(でした)。
2019年7月の台村公園 |
...と書き出しましたが、No.2242 と同じく、周囲の土地が津波浸水対策で4~5メートルほど盛土嵩上げされたので、かなり低くなったように感じます。
下写真が2011年(平成23年)の震災後に訪ねた台村公園で、上の2019年の写真と同じガケを見ているのですが、ガレキが積み上げられたところが地上部、その上の部分の擁壁の半分くらいまで土が盛られていると見受けられます。
2011年5月の台村公園 |
少し角度を変えて見たところ。こちらの方が目印になる旗竿や風力発電付き照明灯などが移っているので、より低くなった様子(正確にはまわりの地面が高くなった様子)が伝わるアングルかも知れません。
2011年5月の台村公園 |
擁壁を少し緩やかな角度にした関係でしょうか、園内の角地に立っていた一本杉も伐られてしまったようです。
2019年7月の台村公園 |
さて、外から見てばかりいないで、園内に入ってみます。
丘の上の平坦な部分は、ざっくりと300平米ほど。それほど広い公園ではありませんが、遊具や防災倉庫など一通りのものが揃っています。
遊具は、すべり台とラダーの複合遊具、ブランコ、太鼓橋のラダー遊具など。
海が見えるところまで行くと、「十分一役所跡」の石碑がありました。
古くから繰り返し津波に悩まされていたせいか、三陸地方では海岸近くの丘の上に役所が置かれることが多いようです。
それにしても、「税率が1/10(十分の一)だから、十分一役所」というネーミングセンスが秀逸です。
■現地の解説板より「史跡 十分一役所跡」
元禄14年(1701)2月、南部藩は海辺大奉行を初めておき、浦方の船や魚類の役金(税金)として十分の一を取りたてた。その役所が此の地に建てられ、それで、この役所を十分一役所といい、浜町一丁目から此処までの大通りを十分一通りともいった。
明治になると此処は第13大区第3番扱所、次いで釜石村戸長役場と名称が変わり、市町村制が公布されると、明治23年(1890)3月に釜石村と平田村が合併して釜石町となり、その町役場が此処に置れた。
ところが大正5年(1916)7月23日、仲町(現・浜町2丁目)の五十県事務所裏から出火し、300余戸が類焼する大火があり、町役場も消失した。それで翌6年の5月に、町役場を学校通り第二地割187番地(現・釜石税務署の場所)に新築移転した。
昭和60年3月
東日本大震災の際には、津波避難場所、地域の物資集配拠点としても活躍した台村公園を、釜石名物の虎が見守っています。
少し背は低くなりましたが、ご近所の方々にとっては行きやすくなったので、かえって良かった知れない台村公園でした。
(2019年7月訪問)
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