尾崎公園は、釜石市街地のやや東寄り、釜石湾を望む高台にある公園です。
もともと津波避難のことを考えて作られた公園であり、東日本大震災でも避難場所として役立ちました。
周囲からは30~40メートルほど階段を登っていく高台にあるのですが、東日本大震災後の津波浸水対策のために周囲の旧市街地の盛土が進められており、以前に訪れた時と比べると、階段がかなり無くなっていました。
2019年7月の尾崎公園入口付近 |
ほぼ同じ場所から撮影した8年前の写真と比べると、手前の手すりが付いていない階段はまるごと、奥の階段も途中まで埋められており、ざっと4~5メートルくらいの盛土厚があることがわかります。
2011年5月の尾崎公園入口付近 |
8年前には、入口付近に公園の略歴が書かれた案内板があり、ここが1933年(昭和8年)の昭和三陸地震の津波をきっかけとして切り開かれ、後に公園となった場所だということが記されていました。
再訪時には無くなっていましたが、教訓・示唆に富んだ案内板ですので、ぜひ何らかの形で再設置して欲しいものです。
■現地にかつてあった解説板よりこの公園の地は、以前この地にあった尾崎神社の社殿跡地です。沿岸漁民の守護神である尾崎神社は、昭和8年の三陸大津波の際、流失し、昭和10年この高幡山の高台に再建され、その後、昭和27年に北側山林裏に移転しました。釜石市は、昭和50年、背後の山腹を含め、面積約1.0ヘクタールを都市公園として計画決定し、市民の健康増進と地区住民の災害時の避難広場に供するため東西に通じる歩行者道と共に、近隣公園として整備したものです。公園内には、アスレチック広場、小庭園、東屋、展望所及び御社殿跡を示す史跡板などがあり、周辺の高台からは尾崎半島、釜石大観音、釜石港、釜石製鉄所をはじめ、市街地が一望できます。昭和54年3月 釜石市
さて、まだ工事中で一部立入禁止の階段を登って公園本体へと向かいます。
途中には、案内板に書かれた「小庭園」があります。
頂上の広場まで行くのが大変なときは、ここからでも、けっこう良い眺めです。
坂下の方を振り返れば、こんな感じ。
ちなみに8年前の風景は、こんな感じでした。
この時は全長100メートルの貨物船が、岸壁に乗り上げたままになっていますが、これが撤去されたのはさらに5ヵ月後のことでした。
2011年5月の釜石湾 |
さらに階段を登って、アスレチック広場まで来ました。
アスレチック広場は、長方形の敷地の外回りに園路を通し、中の芝生地に木製のアスレチック遊具を並べています。
ここまで登ってくるだけでそこそこの運動量なのに、さらに、けっこう厳しめのアスレチック遊具が並んでいます。
一部、鋼製の健康器具も設置されています。
奥のガケのところは、確か以前はタイヤがあったはず。
8年前の写真で確認してみると、4列もタイヤ登りが設置されていました。
2011年の尾崎公園 |
タイヤは無くなっていますが、横手の階段を通れば、ガケの上まで行くことができます。
ここが尾崎公園で一番の眺望ポイント。
ガケ上には、「日本丸寄港記念」という記念碑もありました。ここから眺められるあたりに、日本丸が立ち寄ったことがあったようです。
3本の鉄柱は、日本丸のマストをイメージしているのでしょうか。
あまり考えたくはないのですが、歴史的に幾度となく大津波に襲われている三陸ですので、また次の津波のときにも役立つかも知れない尾崎公園でした。
(2019年7月訪問)
【2022年3月追記】
かまいし情報ポータルサイト「縁とらんす」によれば、記事の初めのほうに出てくる、復興事業でなくなってしまった元々の入口付近、階段の横の園名板がついているところには、完成記念で石碑が埋められており、復興事業に先立ってこれが掘り起こされたそうです。
記事によれば、タイムカプセルのようなものではなく、300kg近い黒御影の碑が直に埋められていたそうで、記事中に転記した木製看板と似通った内容が刻まれていたとか。
うーむ、それはぜひ現地に記念碑として再設置してほしいものです。
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