2143/1000 有岡城跡公園(兵庫県伊丹市)

2019/06/13

伊丹市 駅前 史跡 城跡 兵庫県

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兵庫県伊丹市のJR伊丹駅前にある有岡城跡公園は、中世の伊丹氏が拠った伊丹城、後に織田信長配下の荒木村重によって大改造されて有岡城となった城の本丸あたりを公園としたものです。

そして現在は、JR伊丹駅とデッキ通路で繋がった、駅前城跡でもあります。
下写真が駅を出たところ。周りの近代構造物と比べると背が低いためわかりにくいのですが、中央の芝生になったところが城跡の土塁です。

もっと近くに寄ってみると、こんな感じ。

反対側に回り込んで、下から見上げるとこんな感じになっています。
■現地の解説板より「史跡 有岡城跡(主郭部)」
南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城は、永正17年(1520)には城下町をも城の中に取り込んだ「惣構(そうがまえ)」構造の兆しが見られ、その後の一向宗との合戦など、数々の戦いを経て次第に強化されていきました。
天正2年(1574)、織田信長の部将、荒木村重(あらきむらしげ)が伊丹氏を破って入城し、「有岡城」と改名しました。そして摂津一国の軍事上の中心として大改修を行い、主郭部・侍町(さむらいまち)・町屋地区の全体を塀と土塁(どるい)で囲み、北・西・南にそれぞれ砦(とりで)を配した惣構の城を完成させました。
天正6年、村重が信長に背いたため、大軍によって包囲され、10ヵ月の攻防戦の末に落城しました。その後、池田之助(ゆきすけ)が城主となりますが、同11年には美濃国に移り、城は廃されました。城下町のうち町屋地区はそのまま残り、江戸時代には酒造りの町として栄えました。主郭部は「古城山」などと呼ばれ、堀跡や土塁が残っていましたが、明治時代に鉄道(現在のJR宝塚線)が開通したことにより、大半が取り壊されました。
しかし、昭和50年(1975)から行なわれた発掘調査により、土塁の石垣や建物跡など、貴重な遺構が残されていることがわかって、国史跡に指定されました。現在の史跡公園は昭和58年度から平成5年(1993)度まで10年以上かけて整備したものです。現在地から右手(北方)にある土塁・石垣・建物跡・井戸跡などもぜひご覧ください。

平成20年3月 伊丹市教育委員会

この土塁の周りが国史跡区域に含まれており、駅前ですが建物を建てることができません。
なので、そこを公園の多目的広場としているのが、この公園の特徴です。

遊具などはとくになく、安い人工芝貼りの広場があるだけなのですが、一般的な駅前広場にはない開放感があり、訪れたときは小学生が非常にたくさん集まっていました。

駅前空間として、駅前広場やペデストリアンデッキで、これくらいの広さを持つ場所はほかにも見かけるのですが、子供がこんなに自由に遊び回っているのは見たことがありません。

駅前再開発で建った比較的新しいマンションが多いため、周りに住んでいる子供の数も多いのでしょうが、それにしても人気です。

もしかして、Free Wi-Fi が使えることも、人気の理由のひとつなのかも知れません。

さて、ここまでは駅を出て左手にある土堤の下のブロックでしたが、右手にある石垣の方に回り込むと、もっと普通の「城跡公園!」として整備されているブロックに入ります。

階段を上ると、城の主郭の一部であろう、小高い平場が広がります。
といって、ざっくりと30×20メートルくらいの広さで、それほど大きなスペースではありません。
■現地の解説板より「国指定史跡 有岡城跡」
昭和54年12月28日 指定
伊丹氏がこの場所に城を築いたのは、鎌倉時代末期頃のことである。はじめは居館として建てられたが、戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。伊丹氏の城は、天正2年(1574)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6キロメートル・東西800メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦が配置された。謀反を起した村重は、天正6年、信長勢の攻撃を受け、10ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城した。天正8年、池田之助が城主となるが、同11年美濃の国に転封を命ぜられ、廃城となった。明治26年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。昭和50年より発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった。
平成4年3月 伊丹市教育委員会

上に転記した現地の解説板を読んでも、この保存されている場所が、城の中でどのような位置にあったのかが、今ひとつわかりません。
井戸とか、建物礎石とかが展示されているので、なにかしらの居館建物があったのだろうということが想像されるくらいです。

だいたい、この平場よりも上方に向かう石垣や土堤の存在が、頭を悩ませます。
上に向かっているということは、元々、この平場のさらに上に小段があったものが、その部分は削平されてしまい、ここだけが残ったものなのでしょうか。

そもそも、城としての役割は16世紀末に失われて、江戸時代は酒造と商業の町として栄えた伊丹郷町の都市内にあり、明治に入ってからは鉄道駅がつくられたため、色々と改変を受けているものと思われます。
そうした中にあって、この場所を後世に残そうと努力をされた方の記念碑がありました。

詳しいことは調べていないのですが、この土地を所有していた「武内氏」が、ご自身、奥様、息子さんと代々で力を尽くしたことで、この場所を城跡として保存顕彰することができたようです。
■現地の開設板より「懐古園碑ー有岡城跡ー碑文の概要(意訳)」
この地は、もともと荒木村重の城郭があった跡であるが、次第にさびれて、武内氏の所有するところとなった。
氏は城跡が滅していくのを嘆き、修復して永く後世に伝えようと欲したが果たさずに亡くなった。未亡人の奈如女は、その意志を継ぎ、時機が来るのを待った。
この丘陵はたいへん風光明媚で葛城・金剛。六甲・池田の山々に囲まれ、足もとを猪名川が流れている。
村重から330年にあたり、未亡人は先人の志を生かそうと決意してこの碑を立て、祭りをした。未亡人の貞節と子息利右衛門の孝順を称え、荒木氏の霊も以て冥すべきである。
  明治34年9月24日 七十五翁 北山撰ならびに書


そう思って眺めると、この小さな平場も、また違った風景に見えてきます。

訪れたのは春たけなわ。
多くの人が何かしら集まっている公園は、武内氏も望んだ姿なのではないかと思う有岡城跡公園でした。

(2019年4月訪問)

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