2051/1000 一の谷公園(神戸市須磨区)

2019/03/11

史跡 社寺御嶽 神戸市須磨区 身近な公園 兵庫県

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その昔の源平合戦の頃、平清盛の孫にあたる安徳天皇は、平家に擁されて西国へと落ちていきます。そして迎えた「一の谷の戦い」の際に安徳天皇が内裏を置いたと伝えられる場所が、一の谷公園になっています。

町名が一ノ谷町なので公園名もそうなっていますが、実際は一ノ谷と二ノ谷との間の尾根の、少しばかり平らに広くなったところが公園で、こんな坂道を上って行かねばたどり着きません。

江戸時代1796年(寛政9年)に出版された『摂津名所図会』でも内裏跡は紹介されており、一の谷の西の尾根上に広い野原のような空間が描かれています。

■摂津名所図会八巻 八部郡 下より「内裏跡」
一の谷の上にあり。ここも須磨の上野という。
古松20本ばかりありて、不毛の地なり。これ一の谷の城墟にして安徳帝行宮とし給う。今方24間ばかり、官家より租税免除の地なりとぞ。

同じ巻に「須磨の内裏」の想像図も掲載されているのですが、こちらでは船が集まる砂浜の近くに、石垣を詰んだ御殿のような、かなりしっかりした建物が建てられています。
名所図会の絵師としては、仮にも帝が御座しましたところは、これくらいでないと格好がつかないと考えたのでしょうか。

さて、現在の内裏跡。上の想像図や京都の内裏とは比べ物にならないくらい小さい40メートル四方くらいの範囲が内裏跡だとして、公園になっています。
でも摂津名所図会に書かれた「24間(約44メートル)ばかり」とは、だいたい数字が合います。

この公園の区域がすこし特殊で、下図で見るとオレンジ色で囲まれた区域が都市計画に定められた公園の区域になっていますが、その中を公園外からの一般道が通っているため、自動車で通り抜けることができます。

神戸市情報マップより
https://kobecity.maps.arcgis.com/home/index.html

また、この区域の外周部には塀があるのですが、ここの園名板には「内裏跡公園」と書かれています。

でも、その裏側にある遊具コーナー、先の都市計画図で言えば下1/3くらいの「一ノ谷公園」と書かれている部分には、神戸市の標準的な園名標柱があって「一の谷公園」と書かれています(2つが同時に写るような角度で撮影したのが下の写真)。

もう少し落ち着いて眺めると、こんな感じですね。
雰囲気からして、戦前くらいに「内裏跡公園」と呼ばれて地元の方々に保存されていた区域が、神戸市の公園になった時に「一の谷公園」と名前を変えたのではないかと想像します。
この付近は、明治中期から昭和前期にかけて財界人の別邸が多くあったそうなので、内裏跡の保存にはそうした方々の出資などもあったかも知れません。

今は柵として機能していないコンクリート柱も、内裏跡を囲む玉垣として設けられたものの名残ではないかと思います。

いっぽう、道路の件については、よくあるパターンでは「都市計画上、公園を開設しなければならない区域は道を挟んで右(遊具コーナー)も左(シュロの生えている側)もあわせて設定されているものの、現実には道路が通っているため遊具コーナー部分だけが開設されている」というものなのですが。
実際のところがよくわからないので、とりあえず両方あわせて「一の谷公園」と呼び続けます。

さて、長々とした導入部は終わって現在の一の谷公園の話に入ります。
遊具コーナーの全景はだいたいこんなもので、地区集会所の建物の周りに、複合遊具、ジャングルジム、コンクリート製の動物遊具などが設置されています。

遊具コーナーのメインは今風の複合遊具。スパイラル滑り台にラダー遊具、登攀壁などが付け加わったものです。

よく見ると「一の谷ちびっこランド 癒し処」という手づくり看板が付けられています。

ジャングルジムは赤と黄色とにきれいに塗り分けられています。

で、ちびっこランドから道を挟んで北の一角が、安徳天皇の内裏跡にまつわるような整備がされている部分です。

まず赤い鳥居は安徳宮。
その名の通り、安徳天皇を祭神としてお祀りする社です。ただ、現地には「宗清稲荷」も併設されており、お稲荷様と安徳帝の関係はよくわかりません。さらに言えば、平家一門に平宗清もいるのですが、その人物との関係もわかりません。

■現地の解説板より「安徳宮」
 御祭神 安徳天皇(第81代)1178-1185
源平の戦で源氏に追われられた安徳帝は平家一門に奉じられて西走の途中、一ノ谷に内裏を置かれたと伝えられている。この地に安徳帝のご冥福を祈るために祀られたのが安徳宮である。
安徳帝は寿永4年(1185)下関壇ノ浦の戦にて祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、8歳で海中に身を投じられた。
 御神徳 子供守護 水難厄除 学業達成 年祭四月二十四日

こちらが安徳宮の社殿。横に小さくお稲荷様の祠もあります。

社殿の前にある灯籠は、明治時代にアメリカの大富豪に身請けされて話題となった京都の芸妓・モルガンお雪(モルガン・ユキ)が寄付したという「モルガン灯籠」です。

■現地の解説板より「モルガン灯籠」
この一対の灯籠はモルガン・ユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年(1904)日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚した人。)が、この辺りが異人山とよばれた頃この東に住んでいた。
信仰心のあついユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に2基の石灯籠を献納した。
一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、一基は”明治44年9月10日”と刻まれてる。

平成13年(2001)3月 史跡保存会

「安徳帝内裏跡伝説地」と刻まれた標柱もありました。建立は大正10年(1921)12月。
内裏跡公園としての発足は、この頃ではないかと推察します。

そして安徳宮の隣りにあるのが、真理胡弁財天。
御神体は中央の石碑なのでしょうが、周りの池の造作など、さほど古くもない昭和時代の物件のように見えます。
上で見た名所図会には登場しないところから見ても、かなり後になってから安徳宮に引っ張られて設置されたものではないかと考えます。

■現地の解説板より「真理胡弁財天」
 御祭神 真理胡弁財天(龍神)
安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります」との祖母二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。
海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり安徳帝の御守護神であると伝えられております。
 御神徳 福徳開運 難病平癒 子授安産 諸願成就 芸能上達 年祭七月八日

そしてさらに、真理胡弁財天の西隣には、幕末の皇女・和宮の像もあります。
現地の解説板によれば、明治から昭和にかけての神戸の実業家・中村直吉が市内の女学校に寄贈した3体の像のうちの1体だそうで、戦時中の金属供出やらなんやらを乗り越えて、流転の末に地元有志の力でここに安置されたもののようです。

こうやって並べてみると、やはり敷地の北半分には現代の都市公園に設置するには微妙なアイテムが多いので、ますます「一の谷公園」の区域が気になってしまいます。
もっとも、そんな他所者の勝手な悩みとは関係なく、地域の方々によって美しく保たれている一の谷公園(もしくは内裏跡公園)でした。

(2018年12月訪問)

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