元々は須賀神社の境内地だったそうで、大阪市のホームページによれば「京の刀工、来(らい)一族が南北朝の混乱をさけて当地に来住、付近の開発に努力を重ね、そのときの鎮守として須賀神社を創建したという。現在は中島惣社に合祭されているが、跡地は公園になり、中に樹齢600年と推定される楠の大樹があって、大阪府天然記念物に指定されている(高さ30m、直径1.6m、枝張り30m以上)」とのことです。
こちらが引用文に登場した大楠。
一方、現地には立派な園名碑があって、これの裏に公園の由来というか、須賀神社のことが書かれています。
■現地の碑文より
元須賀神社は、大阪府西成郡西中島村大字淡路の氏神として、古代より鎮座せられ吾々大字淡路の守護神として崇敬していたが、府令により明治43年1月13日大阪府西成郡西中島大字山口の中嶋惣社に合祀せられ現在に到た。処が昭和37年10月大阪市よりの要請により各位の協賛に基き由緒ある境内を永久に保存する為めにかねて地元民から要望していた公園として市民の憩ひの場所となった次第である。
茲に本碑を建立して永く須賀神社の舊跡を顕彰するものである
西紀1963年3月1日
先に引用した大阪市のHPと比べると、神社の創建が「南北朝」時代から「古代」にさかのぼっていますが、これは地元の方々の心情が反映されたものでしょうから致し方ありません。神社は古いものの方が有難いのです。
しかし、その場合、クスノキが植えられた時期も600年前の南北朝時代から、900年前の平安時代くらいまでは遡らねばなりません。
地元の方々が須賀神社を惜しんだ気持ちは、公園の随所に残されています。
そもそも、須賀神社がなくなったきっかけである明治末の神社合祀は、政府方針として全国的に、半ば無理矢理に進められたものなので、多くの反対運動がありました。南方熊楠が『神社合祀に関する意見』を著したのも、この時のことです。
実際のところ、この「神社跡」の石碑などは、神社がなくなった後の拝みの対象になっていたのではないでしょうか。
あるいは、今ある大楠に匹敵するほどの大楠とか。
こちらの愛宕神社の社など、なにかと崇拝されるものが公園内にいまも残っています。
やはり数百年続いた信仰の場が持つ力は、そう簡単には消せないものなのでしょう。
さて、公園の開設は1964年(昭和39年)。こっちだって50年からの歴史があるので、そう捨てたものではありません。
...が、やっぱり長年の風雪に耐えたものと比べると、樹種選びが甘かったのでしょうか、平成30年台風第21号の影響でバタバタと倒れたり枝が落ちたりしていました。
広場の一角に集められた枝だけで、薪ストーブだったら30年分くらいはありそうです。
複合遊具も、落ちてくる枝や倒れてくる樹に負けずに、よく頑張ったものです。
大楠に見守られた須賀森公園でした。
(2018年11月訪問)
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