どう見ても、わざわざ松を残すために作られた公共空間だと見て取れます。
奥へと入っていくと、15メートル四方くらいの小さな空間の中央に、柵に囲まれた松が一本ありました(まわりに桜も植えられていますが)。
石碑もいくつか建てられており、ここが「名所・一本松」跡だということがわかりました。
とは言え、鳴尾の名所・一本松のことは初耳です。
■現地の案内板より「鳴尾一本松旧跡」
我が身こそ 鳴尾に立てる一の松 よくもあききも 亦たぐひなし(拾玉集)
この和歌は鎌倉時代の大僧正・歌人、慈鎮(1155~1225)によって詠まれました。その他「つねよりも秋に鳴尾の松風は わきて身にしむ心ちこそすれ」(西行法師・山家集)「四方に名も高く鳴尾の一の松 雲の山まで生ひのぼりけり」(大国ノ隆正・拾玉集)等多くの歌人に詠まれてきました。
好天日には西は須磨の一の谷まで、東は天王山や奈良のくらがり峠まで遠くからでも見ることができ、旅人の目印になりました。とくに漁師たちにとって、一本松は自分たちの働く姿を見守ってくれる「守り神」でした。この一本松はその大きさと美しさで人々を助け、人々から親しまれましたが、当時の松は枯死してしのぶよすがもありません。現在は五代目です。初代のよう天高くそびえたってほしいです。(平成13.3.3)
西宮市鳴尾文化協会
天高くそびえたってほしい気持ちには同意しますが、せっかくの五代目一本松の周りにサクラを植えるセンスには同意しかねます。
もっと松を目立たせる見せ方ってものがあるでしょう。
一本松と別れて、最近、駅舎が新しくなった阪神鳴尾駅に行ってみると、そこには一本松のタイル画が何枚も飾られていました。いつの間に、こんな名物になっていたのかと驚かされます。
駅には、タイル画の解説の形で、先ほどの公園内にあった石碑の解説がありました。
■鳴尾孤松の銘(弘化2年(1845)秋8月建)抄訳
鳴尾に秀でた一本の老松があり、青々としてうねり、樹皮は鱗のように皺が寄っている。樹齢は古く、古来「一本松」と呼ばれ、これまで多くの詩歌が詠まれてきた。それはじつに雄大な松であり、初めて植えられたのは千年も昔と伝えられている。天保のいまに至るまで、おおよそ三度植え継がれてきたものだ。詩歌は西行によるものが古く、澄西のものには美しい鳴尾浜が描かれている。西園寺公による一節にも海沿いのすばらしい景色が著されている。天保6年乙未(1835)夏。
千数百年前に初代、200年ほど前に三代目、現在は五代目ということで、徐々にひ弱になっているようにも思えて心配なのですが、いずれにしても、こう周りを家に囲まれてしまっては、あまり大きく育てることも難しいところです。
今までまったく知らなかった鳴尾名物に触れたので、少し資料にもあたってみました。
すると、現地の解説板には「西は須磨の一の谷まで、東は天王山や奈良のくらがり峠まで遠くからでも見ることができ、旅人の目印になりました」と書かれている点について、生駒幸子・森田雅也『西宮のむかし話』(関西学院大学出版会)に収められている「鳴尾の一本松」では、「朝日が昇ると、『一本松』の影は、須磨の一の谷まで伸びました。夕日が沈む頃には、京都の天王山や奈良の手前のくらがり峠まで、その影がとどいたと言われています」となっており、かなり話が大きくなっています。
スマホで簡単に三角関数が計算できるサイトを使って、鳴尾から約30km離れた須磨一の谷まで影が届くマツの高さを計算してみました。
朝日が昇り始めた瞬間から影は出ますが、とりあえず仮に傾斜角を2度で計算すると、
底辺 a=30,000m に対する
高さは b= 1,048m
になるようです。まさに東京スカイツリーもびっくり。
そしてもうひとつ学んだことは、鳴尾から直線距離で半径30キロの円を描いてみると、確かに須磨一の谷、天王山、暗峠がちょうど同じくらいの距離なのですね。普段の移動は道路距離あるいは時間距離で感じてしまうので、直線にするとまた違った感覚になることがわかりました。
いろいろ学んだ鳴尾の一本松公園でした。
(2018年11月訪問)
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