この付近は大正終わり頃から別荘・邸宅地として開発されたのですが、その一角にロシア革命から亡命した音楽家たちが集まり住み、後に「深江文化村」と呼ばれる個性的な住宅地が形づくられていました。
と、まぁ見てきたように書きましたが、もちろん現地の解説板から仕入れた知識です。
■現地の解説板より「深江文化村」
大正から昭和にかけて、この辺り一体には、ピアニストのアレクサンダー・ルーチン、指揮者のジョセフ・ラスカやエマヌエル・メッテルら、ロシア革命(1917年)の亡命者たちが居住していた。彼らを慕って多くの門下生が集まり、音楽を通した交流からは、朝比奈隆、服部良一、貴志康一、大澤壽人ら多くの日本人音楽家が生まれた。この地域が深江文化村と呼ばれる由縁である。
深江文化村は、関西で多くの西洋建築を手がけた米国人ウイリアム・ヴォーリズの弟子で、建築家の吉村清太郎によってデザインされた。敷地には13棟の洋館が中庭の芝生を取り囲むように建てられ、大正モダニズムを象徴する空間として知られたが、近年の宅地開発や震災により、今や2軒が現存するのみである。
上の解説板にある写真を拡大すると「中庭の芝生を取り囲むように建てられ」た13棟の洋館の様子がわかります。別の資料によれば、敷地全体が約2,500坪(8,250平米)、中庭が約400坪(1,320平米)あったそうです。
この斜め写真がいつ頃のものなのかは解説に書かれていなかったのですが、1975年(昭和50年)の国土地理院の空撮で見てみると、同じように13棟の建物が確認できましたが、1985年(昭和60年)のものでは一部が無くなって駐車場に転用されていました。
そして、よく見てみると、右上の端っこの方に、本題の神楽町公園らしきマツに囲まれたオープンスペースが写っています。
おそらく写真の方が最近のものだろうと思うのですが、深江財産区が運営する神戸深江生活文化資料館の発刊資料によれば、1938年(昭和13年)ごろには、すでに「神楽公園」があったことになっています。
ちなみに赤角枠で囲った古沢家、富永家は、上の解説板にあった「今や2軒が現存するのみ」の建物です。
そして、ようやく現在の神楽町公園。
文化村時代の名残なのか、道路の真ん中に唐突にマツの樹が立っているところの向こうに見えています。
公園のエントランスから園内を眺めると、こんな感じ。
やはりマツがシンボルとなっています。
園内に入り、いま来た方を振り返るとこんな感じ。
大きなマツの周りを囲むように、滑り台、ブランコ、ジャングルジム、鉄棒などの遊具が配置されています。
滑り台は小ぶりな幼児向けサイズ。
ブランコも小さな敷地に収まりやすい2連のものです。
ジャングルジムはパステルカラーの優しい色合い。
砂場にはウサギとカメがいます。ウサギの方が少しリードしているので、まだ居眠りをする前だと思われます。
敷地の南半分には大きな花壇があり、季節の花で彩られていました。
周りの様子は変わっても、どこか歴史の気配を感じる神楽町公園でした。
(2018年4月訪問)
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