淀川の文禄堤は、文禄5年(1596)に豊臣秀吉が毛利、小早川、吉川らに命じて淀川の左岸(東岸)に築かせた堤で、治水目的の堤防であると同時に、京・伏見と大坂とを結ぶ都市間高速道路のような役割を持つ街道でもありました。
後世の淀川改修によってほとんど現存していないのですが、守口市では街道沿いが宿場町として市街化していたこともあってか、今なおその形がよく残っています。
本日のお題の公園からは少し離れるのですが、京阪・守口市駅前にその様子がよくわかる場所があります。文禄堤をトンネル状に貫いて現代の道路が通されており、堤の上の400年前からの道を自転車に乗った人が走っています。
さて、上の写真から文禄堤の上を300~400メートルほど進んだところに、本町2丁目児童公園があります。またの名は「京街道守口宿(文禄堤)跡公園」だと言うことなのですが、いささか取って付けたような別称です。
どうも、もともと堤から少し下りたところに児童公園があったところに、後から堤と街道を紹介するための整備事業として白壁塀を作ったような雰囲気です。
少し古ぼけていますが、歴史の解説板が設置されています。
●現地の解説板より「文禄堤」
この堤は、豊臣秀吉が毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じて、治水と京街道の整備を目的として修築した淀川左岸の堤防であり、文禄5年(1596)に修築が行われたため文禄堤と呼ばれた。
文禄堤は、度重なる淀川の改修などでその多くは姿を消したが、本市には今なお一部が現存しており、そこは東海道の57番目の宿場である守口宿が栄えたところでもあった。
また、京街道は大阪と京都・伏見とを結ぶ最短陸路で、京都からは大坂街道と呼ばれ、後に東海道の一部に位置づけられ現在の国道1合の前身となった。
園内は滑り台と藤棚付きの砂場だけ。
反対から見ても、この通り。狭小な公園内から宿場町や歴史的な堤防の様子を感じ取るのは難しいという印象です。
堤から下に降りて見上げると、こんな感じ。
しかしここで、中央に見える公園の下に何やら曰く有りげなものがアーチ状のものが埋まっていることに気づきます。
近寄って見ると、擦り切れてはいるのですが「淀川用水樋・・・」の文字が読み取れました。冒頭で登場した道路と同じように、文禄堤を貫いて掘られた用水路跡のようです。
堤を辿ってきて、思いがけないものを見つけたような気がしました。
しかしそれ以上に思いがけなかったのは、公園の斜向いにあっる「かさと丁ちん」の店。
店構えも往年のままに、和傘や提灯を製造販売しておられるようです。
(2017年3月訪問)
【2023年2月追記】
公園名が間違っていたので、タイトル、記事中での呼称を修正しました。正しくは「本町2丁目児童公園」です。
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