1279/1000 城前公園(沖縄県沖縄市)

2016/09/19

沖縄県 沖縄市 社寺御嶽 身近な公園

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ずいぶん前にNo.12 越来城水辺公園を訪れました。その時に「越来城跡は、ここから200mほど離れた丘の上にあります。」と書いたのですが、その越来城(ごえくじょう;ぎーすぐすく)跡の一部を公園にしたのが城前(しろまえ)公園です。

公園の入口には、園名板の30~40倍はありそうな巨大な「越来グスク跡」の石板が設置されています。

対照的に、園名板は可愛いサイズです。ちなみに中央部分が黒く塗りつぶされているのはイタズラではなく、公園名から「児童」が除かれた変更に伴う処置です。

どうも最近になって地元や文化財サイドに「越来グスクをもっと顕彰しよう」という動きがあったようで、公園の入口付近には、まだ新しい解説板や石碑がたくさん設置されていました。
●現地の解説板より「越来グスク跡」
越来グスクは、現在の越来保育所のある石灰岩丘陵上(標高80m前後)に立地していました。古老によると、かつては現在よりも高い山だったといわれており、頂上からは東西の海が見えたといわれています。地元ではギイクグシクとよんでいます。
第一尚氏第六代目の王である尚泰久や、第二尚氏第二代目の王、尚宣威が、それぞれ即位以前に居城していたことで知られています。また、阿麻和利(あまわり)を討伐した鬼大城(うにうふぐすく)も、その功績により居城していたと伝えられています。
これまでの発掘調査により、14C~15C後半を中心とする多量の貿易陶磁器や刀の鍔、切羽、鉄釘などの金属製品などが出土しました。
また、掘立柱建物跡と考えられる柱の穴が発見されていますが、グスク全体を知る手がかりとなる外壁の石積みはまだ確認されていません。

●越来グスク関連年表
1435年 尚泰久、越来王子となる
1453年 「琉球国之図」に「五欲城」と記される
1457年 尚泰久王が魏古城に梵鐘を寄進
1458年 護佐丸・阿麻和利の変。大城賢雄が阿麻和利を討ち、功労に越来間切総地頭を拝命し、越来親方を称す
1470年 尚宣威、越来間切を領し、越来王子となる
1477年 尚宣威王、在位六ヶ月にして越来に隠退する
1613年 「おもろさうし」巻二に「越来杜城、綾庭」と歌われる
1666年 越来間切から美里間切が分離設立される
1713年 「琉球国由来記」巻十二に「越来城殿」で麦大祭、稲二祭の供物について記載されている

沖縄市立郷土博物館発行「越来グスク」より抜粋

さて、出入り口付近と比べると、公園内はやや地味な印象があります。
傾斜地で平場が限られており、また一部が拝所になっているため、下写真に写っている範囲でだいたい全てです。

こちらが拝所。

隣に建つ公民館に近いところにはブランコがあります。

この広場の奥、階段を登った一段高いところは展望台のようになっており、眺めの良い場所に大きなコンクリート製のベンチが置かれています。

ここからは、比謝川を挟んだ向こうに沖縄市役所が建つ丘陵がよく見えました。
(中央の丘陵上に建つ茶色い建物)

一方、見下ろすとNo.12 越来城水辺公園が見えました。
本土の城ですと、こうした城に近い川には舟運用の荷揚げ場が作られていたことが多いのですが、沖縄では内陸水運がほとんど見られません。この川と城とはどんな関係だったのでしょうか。

という感じで城跡気分に浸りましたが、地形全体を眺めると、城としての中心部はもう少し丘の上、現在は越来小学校や幼稚園があるあたりなのではないかと思います。城の中心ではなく、あくまで「城前」なのだろうと思われる城前公園でした。

(2016年3月訪問)

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