そのうちの一つが、神戸市北区の農村地帯にある淡河城跡市民公園で、その名の通り中世の城跡を公園としたものです。
淡河城に拠った淡河氏は、鎌倉時代からこの一帯を支配していた豪族で、戦国時代の当主・淡河定範(おうご さだのり)が羽柴秀吉と争って破れ、歴史の表舞台から姿を消します。淡河城はすでに秀吉に降っていた隣国の有馬則頼に与えられますが、有馬氏も転封となって間もなく廃城となりました。
その辺の経緯は、冒頭の写真にある石碑の碑文に書かれていましたが、長いので省略。
ちなみに揮毫の有馬頼寧は、競馬の有馬記念に名を残す人物です。
■碑文より
淡河城の創築は承久4年淡河庄地頭職に補任された北条右近将監成正が築き、のち淡河氏と称し土地の豪族として連綿と続いた。
(だいぶ中略。南北朝の動乱、嘉吉の乱、秀吉の三木城攻めに際しての淡河氏の動向と滅亡、有馬氏の位封、廃城などの経過が書かれています)
城地は竹慶寺の黒印地として維新まであり。昭和10年旧城主の裔、有馬頼寧伯爵の揮毫を建つ。昭和49年10月天正7年淡河合戦395年を記念し碑文を草す。
城の中枢部は、湯の山街道と呼ばれる街道を見下ろし、淡河川に流れ込む浦川を北堀とする小高い丘陵上にあります。ここに祀られる稲荷神社の境内と周辺の平場が、本丸、二の丸跡だそうです。
麓の川沿いから丘のほうを見上げたところ。
10数年前に、小さな櫓が城跡に作られました。その後に周囲の竹やぶが大きく育ったのでしょうか、櫓を飲み込まんばかりの勢いです。
櫓はとくに史実に基づくものではなく、城跡のなかで眺めの良い場所に倉庫兼展望台として建てられたもののようです。もっとも訪れた時は扉は閉じており、中がどうなっているのかはわかりませんでした。
いわゆる公園っぽくなっているのは、稲荷神社の鳥居と拝殿との間の境内地。
滑り台、鉄棒などが置かれていますが、長年使われていないようです。
そのほかに丸く囲まれたところがあったので「砂場?」と思ったのですが、拝殿に飾られていた古い写真を見ると、土俵だったようです。
市民公園になっていると思われる境内を出ると、周囲の平場や斜面地が城の曲輪跡のようなのですが、言われてみないとよくわからない淡河城跡市民公園でした。
■現地の解説板より「淡河城跡」淡河の里を眼下(比高差約20m)に一望できる河岸段丘上端に築かれたこの城は、淡河氏代々の居城でしたが、天正6~8年(1578~1580)羽柴秀吉による三木城(別所氏)攻めの後は、有馬氏一万五千石の居城として慶長6年(1601)まで淡河と共に栄えてきました。淡河城跡市民公園管理会
城の遺構は現在、本丸と天守台、堀を残すだけとなっています。幅15m、深さ3~5mの堀に囲まれ、本丸の南辺に東西50m、南北8~16mの天守台を配する構えは、当時の面影を残しています。また本丸の南東には竹慶寺跡があり、境内には城主淡河氏代々の墓碑があります。
(2015年9月訪問)
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