吉祥寺駅の北側、パルコから西へ500メートルほど離れた紀ノ国屋スーパーの裏手に吉祥寺西公園があります。
市街地にスポっと2000平米以上の草っぱらがあるという特徴的な姿の公園ですが、10数年前に公園になる以前は外務省の官舎があったそうで、その当時からの樹木が何本か残されています。
東京では2000年代前半の小泉改革の時代から、地価の高い都内にあって老朽化していた官舎の売却が積極的に進められました。政府としては、民間のマンション事業者などにできるだけ高く買ってもらった方が良かったのでしょうが、立地の多くはまだ公園を必要とする密集した市街地なので区・市が買い取って公園にしたところも少なくありません。
また、官舎はたいてい敷地に余裕があって大きな樹も多いために、周辺住民からは一種のオープンスペースとして認識されており、公園化の要請・陳情も多かったと聞きます。
さて、そうした時代背景は一般論として、ここ吉祥寺西公園が公園になった具体的な背景・経過はよくわからないのですが、現状はわかりやすく草っぱらです。舗装された園路もありません。
ここはいちおう園路状になっていますが、園内のどこに通じているわけでもない一本道で、実際は災害時に使われる飲料用タンクの汲み上げ口が設置されているスペースです。ですので園路ではなく防災活動用地と見るべきかと思います。
じつはこの公園は、災害時に備えた地下の耐震性貯水槽や防災倉庫、防災用トイレなどを備えているのですが、どれも目立たないつくりになっており、知らない人がパッと見ても気づかないほどです。
すぐにわかるのは防災無線の塔くらい。
防災倉庫も屋上・壁が緑化され、緑の中に隠されています。
この斜面地は、広場に対してスタンド席になっているようにも思うのですが、真相はよくわかりません。
周囲が住宅ばかりなので、土埃が心配な土敷きが敬遠されるというのはわかりますが、それを避けた時に石張りや芝生敷きなど見た目に整ったものではなく、一見すると雑に見える草っぱらを選んだことで、ほかにない景観をつくりだしている吉祥寺西公園でした。
(2014年8月訪問)
【2024年9月追記】
この公園についてブログのメッセージに興味深い情報をいただきましたので、それを元に追加情報をいくつか書き留めておきます。
情報を送ってくださったのは、青森県ご出身のお祖父様の足跡を調べておられるという方で、それによると、この公園の土地は”戦前は青森県学生寮の修養社の建物があり、これが1944年(昭和19年)に外務省に売られビルマの軍人留学生寮となり、これの廃止後に戦後は外務省官舎になった”ようだということです。
ということで、戦後間もない1948年(昭和23年)の空中写真で確認してみます。
現在の吉祥寺西公園にあたる赤枠部分には、周囲の住宅よりも明らかに大きな建物が3棟存在しており、言われてみれば寮舎のように見えます。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より/整理番号:USA/ コース番号:M737/写真番号:56/撮影年月日:1948/01/18(昭23) |
県出身者向けの学生寮というのは今もありますが、明治の頃は旧藩主などの華族や大地主などが郷土子弟や後進の教育のために土地や費用を出し合い、東京にそうした寮を置くことが多かったようです。
現在、各地方の学生寮の横のつながりをつくっている全国学生寮協議会のサイトにある青森県学生寮の紹介によれば、
明治31年 寄宿舎設置のため津軽承昭より寄附金あり
明治33年 修養社創立、本郷に開寮
大正14年 修養社、本郷から吉祥寺に移転
昭和19年 修養社、ビルマ軍人留学生宿舎として政府に売却、閉寮
昭和31年 青森県学生寮設立
などと記載があります。
最初に書かれている津軽承昭(つがる・つぐあきら;1840-1916)は、津軽藩(弘前藩)最後の藩主であり、版籍奉還により最初の藩知事となった後、廃藩置県で東京に移り伯爵となった華族ですので、だいたいこのパターンです。
大正14年に都心の本郷から急に郊外の吉祥寺に移転した理由は、その前々年に発生した関東大震災で本郷あたりは壊滅的な被害を受けたことの影響があったのではないかと考えますが、ここはブログ作者の勝手な想像です。
また、修養社に関わる津軽藩人脈について探ってみると、津軽藩士の家に生まれて、大蔵省の役人から財界に転じ、日本商工会議所の初代会頭などを務めた藤田謙一(ふじた・けんいち;1873-1946)という人物を知りました。
藤田は津軽伯爵家の経済顧問としても活動しており、修養社にも縁があったようです。
戦前日本の財閥だった鈴木商店の関係者・関係企業の皆さんが資料整理・公開に取り組んでおられるネットミュージアム「鈴木商店記念館」の中に、弘前商工会議所から出版された藤田の伝記がPDFで収められており、これの口絵に「修養社(吉祥寺)の学生と共に」と題する集合写真が掲載されていました。
建物の玄関しか写っていないのですが、わざわざ記念写真を撮るくらいなので、上記空中写真でいえば左上の主屋っぽい建物ではないかと考えてみます。
この建物がどうして外務省の手に渡ったのか理由はわかりませんが、当時の軍人留学生たちが通う先の学校への交通の便利さなどから、吉祥寺駅すぐのこの寮が目をつけられたのでしょうか。
で、戦時中の軍人留学生というのは、日本が占領して軍政を布いていたビルマ(ミャンマー)を始めマレーシア、インドネシア、フィリピンなどの東南アジア諸国から、現地の有力者子弟などを国費で招いた南方特別留学生のことだろうと思います。
ネット上で公開されているJASSO報告書『戦時戦後の留学生政策史に関する調査研究-国際学友会の留学生受け入れ事業を中心として』(研究代表者:平野裕次)によれば、ビルマからは昭和18~19年の2ヵ年で計47人の留学生が選抜されて来日、彼らの宿舎として「ビルマ協会孔雀寮」があったことが記されていますので、これが吉祥寺の元・修養社なのだと考えられます。
ただ上の青森県学生寮の年表だと、昭和18年時点では吉祥寺に孔雀寮はないことになるので、昭和18年の孔雀寮は別の場所にあり、昭和19年から同じ名前のまま吉祥寺の旧修養社建物に移転したのかも知れませんし、単なる年代誤記なのかも知れません。
ただ、修養社も、同じ名前で本郷から吉祥寺に移ってるわけですし、前者かなぁと思います。
ということで、2024年9月時点の追記はココまで。
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