962/1000 三軒家公園(大阪市大正区)

2015/03/20

山遊具 身近な公園 大阪市大正区 大阪府

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大阪市の大正区は、東を木津川、北~西を尻無川、残りは海に囲まれた島状の土地ですが、もともとは木津川河口の砂州のような土地でした。
三軒家公園のあるあたりも江戸時代の初め頃までは寂しい土地で、家の少なさから「三軒家」と呼ばれたと言いますが、1600年代半ば頃には舟運の要所として家が増え、やがて幕府の番所や御船蔵なども置かれるようになりました。

明治に入ると紡績工場が置かれ、これを中心に工場が増えて工業地帯の様相を呈しました。
すなわち、もともとが砂だまりで緑が少ない上に、工場ばかりでさらに緑が少なくなるところからスタートしているため、今でもそれほど緑豊かな地区ではありません。

そんな三軒家地区で貴重なオープンスペースとなっているのが、この三軒家公園です。
とは言え、じつはこの場所こそが紡績工場の始まりの地で、公園の入口にその記念碑が置かれています。

■現地の解説板より「近代紡績工業発祥の地」
 明治16年7月に、東京・大阪の実業財界人渋沢栄一(しぶさわえいいち)や藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)らが出資した大阪紡績会社(通称:三軒家紡績)が、当地「三軒家(さんげんや)村」で操業を始めました。この大阪紡績会社は大正区の近代工業を飛躍的に発展させ、大阪の紡績業を日本一に押し上げる原動力となりました。
 三軒家村は古くから船着場としてにぎわい、石炭や原料の綿花の搬入や製品の運搬に便利なため選ばれたといわれています。
 操業間もなく夜業を始めましたが、明治19年に発電機を購入し、初めてあかあかと電灯がともり工場全体が不夜城のように浮かびあがり、各地から電灯の見学者が殺到しました。工場はまたたく間に拡大発展し、業界に傑出した地歩を確立しました。
 明治20年代には、当地を中心に数多くの紡績、繊維会社ができ、日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるにふさわしい発展をとげました。
 その後、大正3年、昭和6年に他社と合併して世界最大の紡績会社に発展しましたが、戦争激化とともに軍需工場に転換させられ、昭和20年3月の大空襲で焼失しました。

現在の公園は、三軒家東小学校に隣接し、広いグラウンドやテニスコートを持つなど、この地区の拠点的な公園です。ただし大阪市では学校と公園とを一体的に繋げる構造(学校公園)は採用していないため、両者の間には高い塀が続いています。

公園の半分くらいはグラウンドで、両翼70メートルの少年野球場サイズになっています。

残りのうちの、さらに半分ほどが土敷きのテニスコート3面になっています。

そして残ったところが遊具広場で、大阪市の公園らしい遊具が並んでいます。
大阪市らしいと言うのは、複合遊具と普通のブランコ、小さめの滑り台とバケット式のブランコというように、児童向けの遊具と幼児向けの遊具がそれぞれ対になって置かれている状況をさします。

また、古い石の山遊具が目立っているのも大阪市の公園らしい特徴です。

あと、このように大きく育ったフェニックスも、大阪の古い公園にはよく見られます。

ただ、それ以外の高木は少なめで、オープンスペースの少ない下町の公園だからこそ、グラウンドや遊び場ばかりでなく樹木を増やして欲しいようにも思いました。

(2015年2月訪問)

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