このうち東の終点だったのが与那原町ですが、与那古浜(よなこはま)公園は当時の駅があった中心街からは少し離れ、遠浅の浜を埋め立てて作られた東浜(あがりはま)地区にあります。
面積が4ヘクタール以上ある地区公園で、それをあまり細かく区切らずにドーンと大きな芝生広場と、周回走のできる土トラックのある広場とに二分したシンプルな構造の公園です。
芝生広場 |
土トラック |
わかりやすい公園施設はジョギングなどに使える周回園路、成人向けの健康器具、トイレくらいで、あとはとにかく広々としています。
高木も少なく、園内のどこを撮っても写真にメリハリがでないので、どこを紹介していいものやらという感じです。
もっとも、それは私の写真撮影の都合の話で、利用者にとってはほかに少ない広々とした芝生の広場で、なんでも自由な使い方ができる魅力的な公園です(樹が少ないので夏は暑いと思いますが)。
沖縄では、公園の魅力づけはとかく大型遊具に頼りがちで、この広さがあれば一角に大型複合遊具のあるコーナーをつくってしまうところでしょうが、それをしないことで、逆に空間の魅力が際立っていると思いました。
ところで、「与那古浜」という公園名は「与那+古浜」、つまり「与那にある古い浜」かと思っていたのですが、現地にあった解説板を読むとそうでは無いようです。
ただ、違うということは何となくわかったのですが、琉球の言葉の知識がないので肝心なところがイマイチわかりませんでした。結局「こ=古」は「浜」にかかる美称ということなのでしょうか。どなたか詳しい方がいらっしゃれば、ブログのコメントででも教えていただければ幸いです。
■ふるさとの歴史を公園名に刻む ~「与那古浜」の意味
与那原の浜は、かつて山原船が出入りし、国頭地方から薪炭や木材、藍玉などの生活必需品が運び込まれ、人力や荷馬車によって首里や那覇に運ばれました。大正年間には軽便鉄道が敷かれ、名実ともに陸海交通の要所として栄えました。
「与那原」の地名は、この浜と街道がいかに重要だったのかを物語っているようにもみえます。与那原の浜の記述は古く1531年に編集されたといわれる「おもろさうし」巻22の24に、以下の記述があります。
大さとのけすのおもい
あんしきやふし
一 よなははまきこゑ 大きみ やちよかけてと よまさに
又 あきりくちとよむ 大きみ やちよ
(訳 与那覇浜(与那原浜)あきり口で 聞得大君よ
八千代(とわ)に世を統べ 霊威を鳴りとどろかせてください)
「あきり口」(ニライカナイの上がり口の意か)は「阿知利」という地名の由来と推測されます。このうたは与那原の浜と聞得大君との強いかかかわりがあることを意味しています。
また、ほかのオモロにも「雪(よき)の浜」(1の39)、寄り上げ浜(3の18)、あやこはま、しづこはま(1の40)など、美しさを表す浜の名称が見られます。
こうしたことから、与那原の浜が神の来臨する整地としてうたわれ、ニライカナイから豊壌をもたらす浜であったことがうかがわれます。
琉球国最大の儀礼といわれる聞得大君の「御新下り」(うあらおり=即位式)が与那原で行われておりました。その模様は「聞得大君御新下り日記」に残されており、親川・浜の御殿(御殿山)・与那古浜での儀式の様子が詳細に記されています。
尚純妃の御新下りは1706年に、尚温妃の御新下りは1804年に行われ、「与那古浜」という呼称が使われています。
やがて、与那原の浜を表す「与那古浜」の呼び名は人々から忘れ去られていきました。この歴史的な地名を消してはならないという思いから、町民に親しまれている町内最大の公園名に古い呼び名を復活させ、祖先が築いてきた文化を受け継ごうとする意思と、新しい財産を後世に残そうとの思いを「与那古浜公園」の名称に込めたのです。
(2015年1月訪問)
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