その名のとおり約6,000平米ある公園の半分くらいを池が占めていますが、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で1948年米軍撮影の空撮を見ると、現在の公園区域と北側にあるマンションとをあわせた区画すべてが池になっていますので、大きな溜池の3/4くらいを埋め立てて今の姿になっていることがわかります。
池の名の由来は知りません。上の空撮をよく見れば池の中に「宝島」があるのではないかと目を凝らしてみましたが、残念ながら何も確認できませんでした。
この池について、大国正美『古地図で見る神戸』(神戸新聞総合出版センター)では次のように書かれています。
「絵図」(転記注釈:天明8年(1788)ごろに描かれた深江村絵図)をみると街道の北側、芦屋村との境界にあった四角い池からふた筋の用水路が新田にそそがれ、この池が新田の主な用水源になっていることが分かる。この池はかなり埋め立てられたが一部は宝島池として今も残る。
さて現在の宝島池公園。
半分は池といっても、元が広いので市街地では十分な面積の広場、遊具スペースが取られています。
遊具は球形ジャングルジム、4連ブランコが2基、滑り台、色々な上り方ができるラダー遊具など。やや古めのものが多いのですが、ペンキはきれいに塗り直されており、青い空と緑の木々の中で色鮮やかです。
いっぽう、池は大雑把に「琵琶湖のような形」をしており、公園の一角を広い面積で占める琵琶のボディ部分と、そこから水門に向けて流れていくネック部分とで雰囲気が違います。
ボディ部分は一面のヨシ原で、公園側の護岸は緩斜面の自然石積みとなっており、自然風の修景がなされています。
柵があって立入禁止になってはいますが、まぁ子供たちは水のそばまで入っちゃうでしょうね。
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の1週間後に実施された、公園の被害・利用調査の写真((株)総合計画機構所蔵)を見ると、池の北側の擁壁が崩れて住宅が倒れこみ、池の水もほとんどなくなっていることが分かります。おそらく下流側の堤か水門が損傷して、水が抜けてしまったのだろうと思います。
2014年5月の宝島池 |
1995年1月撮影 (株)総合計画機構所蔵 |
一方、ネック部分の護岸は急傾斜の丸石固めで、水面は一面のハスになっています。また中ほどには橋が架かっており、より庭園的なデザインが取り入れられています。
写真の一番奥には樋門が写っており、今もどこかしらへ水路が通じているのは確かなのですが、樋門の先は暗渠になっていて定かではありません。
橋のたもとには祠。池の横ですので、水神様でしょうか。
なんの注釈もなく、また地べたにポツネンと置かれているのが、少し気の毒です。できれば台座を付けて、もう少し拝みやすくなればよいのですが。
また、池の南側には阪神・淡路大震災の慰霊碑があり、近隣の3町会で亡くなられた97人のお名前が記されています。
やはり池があるという個性の強さは大きく、近所でも人気の宝島池公園でした。
●阪神・淡路大震災モニュメントについてはこちらも
(2014年5月訪問)
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