『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』(角川書店)によれば「町名は字正慶島によるというが、正慶年間(1332~1333)ごろ当地の開拓がおこなわれたためといわれる」と書かれています。
Yahoo!辞書を見ると、鎌倉時代末期の年号「正慶」は「しょうきょう」とも「しょうけい」とも読むようですが、旧町名と公園名は「しょうけいちょう」と読みます。
さて、現在の正慶町公園。上の写真は南側にある出入口から園内を眺めたところですが、これでほぼ全てです。
本来は、写真左手に見えている市営住宅向けの遊び場として意図された公園と思われますが、建物1階が店舗になっているためか(開いている店は少なくなっていますが)、両者の間はけっこうボリュームのある植栽と柵とでしっかり隔てられています。
これが普通の住戸や廊下などでしたら、もう少し一体感を持てる配置・構造になったようにも思うのですが、店先で子供が騒がしくするのが敬遠されたのでしょうか。
そして今回も、(株)総合計画機構が所蔵する阪神・淡路大震災1週間後の記録写真をお借りして見比べてみました(当時の写真は下に撮影年を記載)。
ちょうど冒頭の写真とほぼ同様の位置から撮影した写真がありました。手前には避難テント、その奥には焚き火をした跡のようなものが見えます。
冬の寒い時期に発生した阪神・淡路大震災では、暖を取ったり食事の煮炊きをするために公園内で焚き火をする人が多く見られました。その経験をもとに、災害時に火を焚くのに使える「かまどスツール」「かまどベンチ」が公園施設として商品化され、あちこちで導入されているのは、本ブログでも紹介してきたところです。
1995年1月撮影 (株)総合計画機構所蔵 |
テント横にある丸太状の遊具は現在はなくなっていますが、奥の方に見えるブランコ、滑り台、ジャングルジムなどは、今も現役です。
園内の一番北寄りには、パーゴラや砂場などのある休憩スペース。
その奥に見えるピンク色の壁の向こうには、震災後に整備された別の公園があるのですが、間には市営住宅の車庫・進入路があるため、両方を一体化させることはできなかったようです。
このように小さな公園のわりに、災害時の広域避難場所(地震に伴う火事などから避難し、熱や煙から身を守るための屋外避難空間)に指定されているのは、お隣の公園などと併せてということでしょう。
お隣の公園については、また次回。
(2014年4月訪問)
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