ここでは、1960年代の公害対策運動に端を発し、福祉・居住環境改善のためのまちづくり活動が続いており、そこで培われたコミュニティ等が1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の折に火災延焼防止、人命救出などに役立ったことが注目を浴びました。
阪神・淡路大震災から1週間~1ヵ月ほどの間、私は都市公園の被害状況や利用状況に関する現地調査に携わっていたのですが、その時にも訪れた真野公園に久しぶりに立ち寄ってみました。
(株)総合計画機構が所蔵する当時の記録写真とあわせて見てみましょう(当時の写真は下に撮影年を記載)。
写真は真野小学校に面した西側の出入口付近。写っている範囲を見る限りでは、ほとんど変わっていないという印象です。
公園の園名板は19年前のままですし、青い車止めのポールも同じもののように見えます。極端に劣化が進むような設備ではないので、当時のポールが今も使われているかも知れません。
1995年1月撮影 (株)総合計画機構所蔵 |
公園の一番奥には、やや古ぼけたパーゴラ。
上の写真とは撮影した向きが違いますが、震災当時はこのパーゴラの前にテントが張られて、兵庫県庁の長田地区救護対策本部が設けられていました。
写真で見ると、左手の方の屋外にも救援物資(パン?)の輸送・保管に使われたと思われるプラケースが山積みになっています。
1995年1月撮影 (株)総合計画機構所蔵 |
古い写真には残っていないのですが、ブランコ、滑り台、ラダー太鼓橋なども、だいたい当時のままではないでしょうか。ペンキは塗り直していると思いますが。
この筋斗雲のような2人乗りの大型スイング遊具は、当時はなかったような...
一方、当時からあるのですが、今も昔も遊び方がイマイチわからない遊具。金属製の板が何枚か組み合わさり、壁のようになっているだけの構造です。
ボールをぶつけて遊ぶ投てき板にしては穴だらけだし、プレーウォールにしては潜り抜けられる穴が限られているし、シルエットが何かの形をしているわけでもなし。
「子供は遊びの天才」というので、これでも何かしら遊んでいるのでしょうが、設置した側の意図は知りたいところです。
そしてパーゴラのさらに奥には、ビオトープ池(自然真野っ子池)があります。
最初に述べたように、工場の多い真野地区では1960年代から公害問題を契機としたまちづくり活動が盛んで、この場所にもその一環としてつくられたホタル園があったそうです(私の記憶にはまったく残っていませんが...)。
それが震災で壊れてしまった後に、井戸を掘って水を流し、改めてつくられたのがこの池。
2005年製だということで、つくられてから9年が経ちますが、しっかりと管理されている印象でした。
(2014年4月訪問)
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