ここ大阪狭山市にも、南海電鉄が、江戸時代の領主・北条家(狭山藩)の陣屋下屋敷があった狭山池畔に、1938年(昭和13年)に開園したさやま遊園がありました。
しかし昭和の時代には人気を集めていた遊園地たちも、平成に入るとレジャー環境の変化などから閉鎖されるところが相次ぎ、さやま遊園も2000年(平成12年)に閉園されました。
跡地は再開発されて住宅地となり、その中央に新しく整備されたのが市営のさやか公園です。
さやま遊園の跡地なので「さやま公園」でも良かったように思いますが、公園名は「さやか」です。あえて語感の似た言葉を選んでいるところに、何か狙いがあるような無いような。よくわかりません。
公園入口の駐車場脇には、さやま遊園の歴史を記した写真入りの大きな解説板が設置されています。わかりやすい俯瞰写真が添えられており、かつての遊園地の姿がよく分かります。
欲を言えば、藩主下屋敷があったという歴史にも触れて欲しかったように思います。
●現地の解説板より「さやま遊園」
さやま遊園は、大阪府史跡名勝に指定されている狭山池の畔に、昭和13年5月1日、南海鉄道株式会社が開園した。園内には大小30種の乗り物やミニ動物園があり、春の桜並木やバラ園など四季折々の花々が美しく咲き誇る皆の憩の場であった。夏のプールと、大阪南部では珍しい冬のアイススケートは特に人気を博し、多いときには年間54万人の行楽客で賑わったが、平成12年4月1日をもって、惜しまれつつも閉園した。
公園は防災公園として整備されており、災害時の避難場所でもあるため、広場主体であまり施設は多くありません。
大きなクスノキやカイヅカイブキは遊園地だった頃からあったものだと思います。
とは言え周囲は新しい住宅地なので子供も多いようで、中型の複合遊具や乗り物遊具などがある遊具広場には幼稚園の子供たちが遊びに来ていました。
ちなみに最後の写真は、No.503の狭山池公園に含まれる堤上から撮っています。
遊園地は、それはそれで懐かしさをかき立てられる存在なのですが、おそらくその頃は市街地と狭山池との間に遊園地が横たわっていて気軽に池畔には出られなかったことと思われます。
その点からすると、まちのどこからも狭山池に出やすくなったのは良かったのではないかというのが余所者の感想です。
●狭山藩の武家住宅に詳しい小論『狭山藩の武家住宅について』(植松清志・谷直樹)
(2013年5月訪問)
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