花畑公園は、熊本市の中心部、熊本城から交通センター(バスターミナル)へと向かう途中にあります。
小さいながらも鬱蒼とした森のようになっており、周囲の市街地からは少し浮いた雰囲気すらあります。ここは、もともとは花畑屋敷と呼ばれた熊本藩主の邸宅の一部で、さらに遡れば代継神社の境内であったそうです。
現地の解説板によれば「花畑公園は、平安時代四本の大楠をご神木に記した四ツ木宮(現在の代継神社)の一角に位置し、現在公園内にある大楠(樹齢推定700年、市指定天然記念物)は、その内の1本と伝えられています」とあります。
こちらが件の大楠。
できるだけ写真に収めようと精一杯引いてみましたが、かえって分かりにくい写真になりました。
いくぶん近寄ってみると、こんな感じ。幹周りには注連縄が巻かれ、今もご神木扱いです。
根のまわりはみっちりとササが植えられており、近づいて悪さをすることはできなくなっています。
明治になって西南戦争で城下町が全焼した後、このあたりには陸軍の連隊・練兵場が置かれました。練兵場については、市長・辛島格の施策によって1900年(明治33年)に移転したのはNo.400の辛島公園で触れたとおりですが、連隊の移転は1923年(大正12年)のことだそうです。
公園内には、巨大な三烈士の碑があります。
下の写真で左側に見える小さめの円筒状の石碑に詳しい経緯が刻まれているようなのですが、片仮名交じり漢文調の長文で、とても読むことはできません。
そこで熊本市立図書館のレファレンスによれば、「昭和12年(1937)5月に、熊本海外協会の発起で立てられた。『三烈士』とは、若林龍雄(わかばやし・たつお)、中山直熊(なかやま・なおくま)、堀部直人(ほりべ・なおと)の三人のことである。明治37年(1904)日露戦争の開戦にあたり、ロシア軍の後方を撹乱するために特別任務隊が組織された。3人もこの任務に参加し、それぞれの任を果たし、壮烈な死を遂げた。碑文については『熊本海外協会史』(231P〜234P)に掲載あり」ということだそうです。
なにしろ、元々が神社、そして神様になっている加藤・細川の両殿様の住まい、さらには烈士も所属した陸軍の連隊跡という歴史を歩んできただけあって、楽しげな名前に似合わず、市街地の中でもかなり異質な雰囲気を醸し出している花畑公園でした。
●熊本県による観光案内ページ
(2013年7月訪問)
熊本市では、シンボルプロムナード関連整備の一環として、花畑公園の再整備を予定しているそうです。それに関連して、所有者のハッキリしないものも含め、公園内の記念碑を一斉に移転させることになるようです。
返信削除記事中では「市街地の中でも異質な雰囲気」と述べましたが、みな無くなってしまうとそれはそれで寂しいような気もします。
●熊本市HP「花畑公園の記念碑移転について(お知らせ)」
>http://www.city.kumamoto.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=4861&class_set_id=2&class_id=71