西宮市の鳴尾地区は、もともとは武庫川の河口近くのなだらかな土地で、川沿いの微高地に育つマツが美しく目立っていたそうです。
大正時代に武庫川の改修に伴って廃川となった支川の枝川跡地に住宅地が開発され、これが甲子園と名付けられました。今は甲子園○○町という住所表記の範囲は広がっていますが、甲子園一番町~九番町までが当初の開発範囲だそうです。
ということで、現在は甲子園駅から徒歩3分ほどの甲子園六番町にある八ツ松公園のあたりも、かつては枝川の土手に八本松が並んでいたのではないかと想像します。
川のそばなので水には不自由しなかったのかと思いきや、暴れ川でもある武庫川からの取水はかなり難しかったようで、天正19年(1591年)の水争いの記録が残っているそうです。
公園内には、この争いの折に犠牲となった人々を顕彰する碑が建てられています。話は豊臣時代と400年以上前のことですが、碑が建てられたのは40年ほど前のことです。
●義民顕彰碑
天正19年夏の旱魃に鳴尾の農民は灌漑用水の欠乏に迫られ、武庫川の分流たりし枝川の北郷用水樋に加工し、密かに暗渠を通じて上流の瓦林地方の用水を導入した。これがため瓦林農民の怒を受け、烈しい斗争を惹起するに至り、遂には官憲の発動となり成敗が加えられ、双方に加勢した村々にも糾弾が及ぶほどの大事件となった。
村のために非常手段を敢行した20数名の農民たちは、翌年秋、磔の極刑に処せられたが、哀情は認められて爾後鳴尾用水路は確保されるに至った。
後世鳴尾郷民は、この犠牲となった人々を義民と称えて墓碑を甲子園の淨願寺に建て、その遺徳を追慕し霊を弔い、今尚命日には盛大な法要を続けている。
寺は此の東50メートルの地にあり、北郷用水樋の趾は北約800メートルの地に建碑標示してある。
撰者 兵庫県文化財専門委員 吉井良尚謹書 甲子園淨願寺住職 釋得雄
さて、先に義民碑から話を始めましたが、本題は園内。
四方を道路に囲まれた1街区がそのまま敷地になっており、そのうち南側に土舗装の多目的広場、北側に遊具広場があって、公園の区画内に八ツ松市民館という地域コミュニティ施設もあります。
遊具広場は、中心に山遊具を据え、周囲にブランコ、二重太鼓橋のラダー遊具、鉄棒、パーゴラなどを配したシンプルなもの。広さの割には遊具は少なめです。
しかし、中央の山遊具が立派なのと、遊具が少ないのが逆に走り回るのには適しているのか、元気な小学生が集まって、スゴい勢いで登ったり降りたりを繰り返して遊んでいました。
山遊具のカラフルさも魅力です。
(2013年1月訪問)
【2024年7月追記】
数年前に、この石の山遊具が改修されたのですが、いつ通りがかっても子供がいっぱいで写真を撮れませんでした。
この度、ついに子供がいない時間帯に通りがかったので、最新の情報に更新します。
こちらが全景。以前よりも、ラバーマットや柵が増えました。
以前は滑り台を下りた先は砂場だったのですが、これを無くして、代わりにラバーマットが取り付けられました。着地点が掘られて穴のようになることを防ぐものです。
転落事故防止のために、ほかにも縦方向のトンネルなど高さがあるところには、ラバーマットが追加されています。
また頂上や階段には手すり兼用の柵が増えました。この柵には、高い位置からの転落防止の役割と、急に階段の横から飛び込んでくるような動きと交錯しないようにする働きがあります。
山の斜面が細かく区切られることになるので、上ったり下りたり、横移動をしたりという遊び方の自由度は減りましたが、遊具安全のための最新の知見に合わつつ、人気がある石の山遊具を今後も残していくためには、止むを得ない措置です。
ロープやラダーなど、個別パーツで老朽化していたものも、適宜取り替えられています。
西宮市内には、石の山遊具がけっこう多いので、今後も順次、こうした改装が行なわれるものと思われます。
また山遊具以外にも、遊具広場が全体的に更新されており、例えば、身体能力の面で通常型のブランコで遊べない子供も遊びやすい、インクルーシブタイプのブランコが新設されました。
乳幼児向けのバケット式のものとも異なり、もう少し体が大きい子供でも、ロック付きのハーネスが体をしっかりと支えてくれるため、安心して遊ぶことができるものです。
幼児向けの遊具も増えました。以前は元気の良い小学生専用といった色が濃かったのですが、もう少し幅広い層が遊べる遊具コーナーになったと思います。
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